大裏に遊ぶ(3)
井戸から出てきたのはただの水でした。
滾々と湧き出る透明な水。
それが、周囲の草むらに広がっていく。
「ヤバいよ。このまま行くと、私たち水没しちゃうよ!」
「急いで元の世界に戻らなきゃ!」
ふたりできびすを返して元来た方へ……
「ちょっと、そっちじゃない!」
「いえ、こっちが正しいはず」
「太陽がこっちだからその反対でいいの!」
「え? だからこっち!」
二人して違う方向を指さしている。
そして、さらに困ったことが起きた。
いつの間にか周囲のビルが消えていたのだ。
一面の野原。
京都市内ではありえない光景だ。
たとえるなら、奈良の平城宮跡。これじゃ平安京ですらない。
「どうしよう。本格的に異世界に入っちゃったよ」
さすがのメリーさんも頭を抱えている。
「あんた、魔界探偵なんでしょ。こういう時の定番の解決法はないの?」
「えっと、『特異点』をさがす」
「なにそれ」
「『特異点』っていうのは、『既存パターンが崩壊して連続性が失われる点』のことよ。そこに脱出の糸口がある」
二人で顔を見合わせる。
「戻りましょう!」
足元の水は、そんなに深くはない。勢いも小川程度だ。
そして、慈愛を感じる。万物を育てる温かみのある水だった。
井戸のそばに立つ。
「ここに飛び込むわけ? リスクしか感じないんだけど」
「いえ。私たちの世界との連続性は、この空間にあった。だから、井戸に飛び込んだら本当の異世界に飛ばされてしまう」
「小野篁か!」
「オノノコマチ?」
「違う。冥界と行き来してダブルワークした昔の超有名人」
「そりゃまた日本人らしいワーカホリックね。さて、『イドの怪物』を呼び出してみますか」
「井戸の怪物?」
「そう。この幻影をもたらした根本原因」
そして、メリーさんは固まる。
「無理だ! ここじゃ魔法陣が書けない!」
そう。周りにある物はすべて濡れているか水についているのだ。
そして、仮にペンがあったとしても、書くものがない。服の切れ端に書くなんてのは論外だろうし、あとは……
「服、脱いで! 彩月の背中にこれで書く!」
メリーさんは、どこかから取り出した小刀を手にしている。
「ちょっと待って。そんなもんで乙女の一生を棒にふらせるな!」
「うっ」
「今のところすぐに死ぬことはなさそうだし、水があれば三日は生きられるって言うでしょ。もっとよく考えてみようよ」
「うん。……で、対案は?」
「うーん、待って。お婆ちゃんが『八幡の藪知らず』で迷ったときの呪文をなんか言ってたような……」
「ヤワタのマヨネーズ?」
「ちょっと黙ってて。真剣に思い出しているところだから」
……えっと、確か「南無八幡大菩薩」で始まったような。
メリーさんは少し離れたところで呪文をとなえはじめた。
「Spirits of heaven and earth, gird yourselves.
With the might of the Great Mother,
restore us to our original land.
Heaven to heaven and Earth to earth!」
メリーさんの呪文は効かなかった。
そりゃそうだ、ここは日本なのだ。
「ボレアス、ゼピュロス、ノトス、エウロス!」
……あー、メリーさん、それギリシャ語。たぶん通じない。
気が散るなあ。あ、四方に関するあれだ!
「めいこさんがいのしろ、ごこじっぽうのくう、ほんらいとうざいなし、いづくにかなんぼくあらん」
迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処有南北。
……確かこれだ。本来何もないんだから、位置情報なんてどうでもいい、的なヤツ。
瞬きをした一瞬、私は自分の部屋の中にいた。
そして、メリーさんは隣りにはいなかった。
電話が鳴った。
「わたし、メリーさん。まだ、井戸のそばにいるの」
「うん、わかった。一度、切るね」
通話を切る。
また電話が鳴った。
「わたし、メリーさん。マンションの玄関にいるの」
えらいすっ飛ばしてきた。これでは角のたばこ屋の立場がない!
「はいはい。誰かが入るのを待ってね」
通話を切る。
「わたし、メリーさん。今、サツキの部屋の前にいるの」
「はいはい。勝手に入ってね」
「それはできないの。お約束だから」
「仕方ないなあ、もう」
ドアを開けると、びしょ濡れのメリーさんがいた。
「サツキ、ひどいよ、先に帰っちゃって」
抱きついてくる。
「ごめん。私もこうなるとは思ってなかった」
「でね、お願いがあるんだけど」
「何?」
「お風呂貸して!」
「うん、いいよ。でも、どうして?」
「うちのシャワー、冷たいの」
……ははーん、こいつガス会社との契約、忘れてたな!