呪われた団地(2)
私たちは、車止めの隙間を通ると右に曲がり、一号棟へと向かった。
大きな栗の木が生えている横を通り、すずねさんの家がある階段へと向かう。
左手の二号棟の前には駐輪場があって、自転車がたくさん並んでいる。大半が錆びついていた。
「こちらです。どうぞ」
郵便受けにも、テープを貼られたところが多い。階段をのぼり、時代を感じさせる鉄のドアを開く。
真正面の奥にある応接間に通される。一見洋間だが、元は畳だったらしい。絨毯の端からは畳の縁が見えている。
「ご家族は?」と会長。
「父は出張、母はパートに出ています。弟はどこかに遊びに出ているみたいですね」とすずねさん。
すずねさんは、麦茶をコップに注いで持ってきてくれた。レトロな水差しにレトロなコップだ。まるで団地の住人がレトロウィルスに――じゃなくてレトロ化するウィルスに感染したかのようだ。
一息ついたところで本題に入る。
「これが、幽霊を見たという世帯の分布図です。声が聞えたという家は、緑でマークしてあります。父が三月まで自治会長をしていたので、こういう資料があるんです」
見れば、一号棟から六号棟がやや多めで、七号棟から十五号棟は少なめだ。四号棟は空き室が多い。が、とくに顕著な差は感じられない。強いて言えば、五、六号棟と十五号棟が少なく、一、二、三号棟の近辺に多いという感じか。
「団地の中を見て回りたいのだけど、いいかな?」と会長。
「はい。ご案内します」とすずねさん。
お茶を飲み終えると、私も後に続いた。
団地の敷地は平らではなく、元の地形を生かしていた。一号棟から六号棟までは同じ高さで、七号棟から十四号棟までは少し高い位置にあり、十五号棟は少し離れた位置にある。集会所と広場が八号棟と九号棟の間にあり、そこにはつづみかメジャーカップを縦に引き延ばしたような形をした薄緑色の塔が建っていた。
会長がたずねた。
「あの塔は?」
「給水塔です。寄ってみますか?」
「ああ」
給水塔の下には、長方形のコンクリートでできた何かがある。
「あれは?」
「貯水槽です。そこに蓄えた水道水をポンプで塔の上に汲み上げて、そこから各住宅に供給するんです」
「うむ。謎が解けた気がする」
アマリ氏が、顎を手でなぞりながら言った。
「誰かがあそこに幻覚剤を投入したんだ」
「いや、それはないな」
後ろから声がした。
「飛鳥井先生!」
京都大学教授、飛鳥井先生だった。いつもの三つ揃いではなく、カラーシャツにチノパンという休日の装いだ。私もメリーさんも、先生の講義をとっている。私たちは口々に挨拶した。
「君は、メリー・ウィンチェスター君だね。研究は進んでいるかい?」
「はい! ぼちぼちでーす!」
どこかで変な日本語の使い方を覚えたらしい。
そういえば、メリーさんは大学院生だ。見た目が若いのでつい勘違いしてしまうが、私のひいおばあちゃんくらいの年なのだ。
「おや、見た顔だな。君は確かアマリ君、だったね」
「ご無沙汰しております」
バツの悪そうな会長だ。
「君の第六天魔王のレポートは、今でも覚えているよ。『沙石集』にも、その他の中世神話にも一切触れずにレポートを書いていたからねえ」
「お恥ずかしい次第です」
会長の黒歴史らしい。
「で、今日はどういう集まりなのかな?」
「怪奇現象の調査でーす!」
メリーさんは、明るく元気に答える。
「うーむ。そうか。……実のところ、私たちも幻覚剤の線を疑ってタンクの水を徹底的に検査した。水質分析の専門家も何人かこの団地に住んでいるからね。それに、仮に誰かが幻覚剤を投入したとしても、このタンクの水は多すぎる。そして何より、騒ぎが始まってからすぐ自治会でも監視カメラを設置した。ここのタンクは常に監視しているんだ。ここによじ登るだけで、警察に通報が行くようになっている」
「警察、ですか」
露骨にいやな顔をするアマリ氏。
自主性を重んじる京大生には、権力の犬は不倶戴天の敵、という意識があるらしい。
「ここには近畿管区警察局――警察庁の職員も住んでいるからねえ。警察官は、何かあったらすっとんでくるよ」
というわけで、ミステリー研会長の黒星がまた一つ加算された。
私たちは、団地の端から端まで歩いてみた。特に怪しい場所も気配もない。いや、多少は怪しい場所があるにはあったが、五年前からという条件にははずれていた。
時刻は三時すぎ。
団地の真ん中の道路から、かなりレトロな感じの音楽が流れてきた。
「あれ? 移動販売?」
見に行くと、三号棟の横あたりに紅白の縦縞のライトバンが止まっている。
「おなかすいたでーす」
メリーさんが人形の怪異らしからぬことを言う。そういえば、私も小腹が空いたところだ。
ライトバンは、横と後ろの扉を開くところだった。縦縞のエプロンと円筒形の帽子をかぶったお爺さんがワンオペだ。
「パン屋さんなんだ」と私。
自動車は、団地の北側のゲートから入れるようになっている。
「他にどんな移動販売が来るのかな」
すずねさんにアマリ氏がたずねる。
「そうですね。魚屋さん、お肉屋さん、八百屋さん、お豆腐屋さん、和菓子屋さん、花屋さん。あと季節限定でラーメン屋さん。どこも昔から出入りしている老舗ばかりですよ」
すずねさんが考え考え答える。
「プリンパンがあったの! ジャムパンにチョコレートパンも!」
食欲に負けたメリーさんは、すっかり菓子パンハンターと化していた。
「これが、各曜日の移動販売の駐車場所のマップです。大体、曜日で場所がバッティングしないようになっています」
すずねさんが、自治会の資料を見せてくれた。
土曜日と日曜日は激戦区らしく、パン屋のあとは夕方に花屋が入るようになっていた。そして、十三号棟の横にも、移動販売が止まる場所があった。パン屋と花屋は日曜日はここに止まる。日曜日には、三号棟の横に肉屋と八百屋が、十三号棟の横には魚屋と和菓子屋が止まり、豆腐屋は夕方に適宜走り回って路上販売をする。
「これだと、市場まで行く必要がないよね」と澪さん。
「そうなの。この団地の中でずっと生活ができそうな感じだよ」
「どうしてすずねさんのお母さんは、市場に買い物に行くの?」とメリーさん。
「うーん。人間関係?」
さらっと言ってのけるすずねさん。団地あるあるかもしれない。いや、女社会全般か。
「地方裁判所の人って、簡易裁判所とか家庭裁判所の人を露骨に見下すじゃないですか。それがいやなんで、わざわざ市場まで買い物に行くらしいです」
「すずねの家族は幽霊を見ていないのね?」とメリーさん。
「ええ」
メリーさんが、びしり、と指をつきつけた。
「事件の鍵は五年前ね。その頃にこの近くで起きた幻覚剤がらみの事件を調べてみて。出入りの業者の誰か、おそらくは十中八九、豆腐屋が犯人よ!」