7-11.「間違えないでほしいんだ」
――そう、すべてはテグシーさんの言う通りになる。
私が本当のことを言わずにいたのは、それを他の誰よりゼノンさんに知られたくなかったからだ。
最初にウソを付いてしまったのは、私がまだ入院中だった頃。
その日もテグシーさんは朗らかに、聴き取りがてらとお見舞いに来てくれていたのだけれど。
そこで唐突に、ピラリと手渡されたのが1枚のリストみたいなものだった。
聞けばそれは、あの一件の主犯――アレクセイ・ウィリアムの証言をもとに作った聴取書的なやつらしい。だけど彼はもうあまり正気とも言えない状態で、言っていることも妄言や世迷言としか取れないような内容ばかり。
だからどこまでが本当で、どこまでがそうでないのか。
知っている限りで、私にも確認してもらいたいとのことだった。
決して気は進まなかったが……。
私にできることがあるならと想いで受け取る。
表裏に小さな文字がびっしり書かれていてすぐにうぐぅとなったが、特に気になるのはココだと示されて目を留めた。
見ればそこに、私があえて言わずにおいたことが書いてあって。
「まぁ他は正直どっちでもいい部類なのだが……。そこだけが唯一気がかりな、キミと奴との証言の食い違いになる。キミの話には出てこなかった内容なので、まさかとは思うのだが」
顔色を伺うみたいにテグシーさんから、そう尋ねられる。
よく読み込んでいるフリをしながら、どう応じるべきかと私は逡巡した。
ここで首を横に振れば、聞かれなかったからと言い訳はもう通用しなくなる。でもやっぱり言いたくなかったのはこれ以上、みんなに余計な心配をかけたくなかったからだ。
何より、ゼノンさんのことがあった。
だってもしそれを知ってしまったら、ゼノンさんのことだ。
きっとまた責任を感じてしまう。
自分のせいでって弱々しくなって、また謝り始めてしまうように思えてならなかったから。
もうイヤだった。
せっかくあれからいろいろ話して、すれ違っていた気持ちも合わせることができたのに。私のことでまたぶり返させたくなんてない。
最終的に、そんな気持ちが勝ってしまって。
まさかないですよこんなこと~、とにっこり笑顔で受け応える。
そのとき既に水が怖くなっていると自覚はあったけれど。
自分さえ上手くやれば大丈夫と、私は言わないことに決めた。
そんなこと無かったかのように振る舞って、取り繕ってしまったのだ。
◇
本当はもっと上手くやれると思っていた。
悲しませないために付いたウソだったからこそ、最後まで付き通せなくちゃ意味ないでしょって気持ちも強くあって。
だって、おかしいだろう。
たかが『水』じゃないか。
身の回りに溢れすぎているし、いくら一度溺れかけたとはいえ、まさか飲み水や雨粒が一人でに襲い掛かってくるわけもなし。こんなのは気持ちの問題だって、やれる限りのことはやろうとしたのだけれど――。
ダメだった。
何とかしなくちゃって克服しようとすればするほど、それへの恐怖は増していくばかり。むしろ日を追うごとに、悪化していくようですらあって。
だから1日も早く、この雨が止みあがってくれることだけが望みだったのだ。
でも、それも間に合わなかった。
たぶん自分でも気づかないうちにとっくに綻んでいて、ゼノンさんをすごく不安がらせてしまっていたし、おろかテグシーさんからはこんな気遣いを重ねられる形で何もかもを看破されてしまって。
本当にみっともなくて、私は謝ることしかできなかった。
「アリシア……」
――静寂。
申し開きようもないまま、ただ瞳を伏せていると。
突然、周囲からシュルシュルと細い糸が伸びてくる。
いったい何事かと戸惑っているうちに集まった糸が私の手足を体ごと持ち上げ、クレーンされた先に運ぶのだ。待っていたのは、両手を広げたテグシーさんの胸もとだった。
そこにそのまま、ポスンと落とされる。
ぎゅっと抱きしめられて。
「テグシー、さん……?」
目をパチパチさせているとテグシーさんは言うのだ。
すまないと、囁きかけるみたいに静かな声で。
「え……?」
「そうだな。差し当たってまず謝りたいのは、この私の振るわなさだ。ゼノンから相談を持ち掛けられた時点で嫌な予感はしていた。こうなると予想もあったはずなのに――。いざキミの告白を聞いて、どうしていいか分からなくなってしまった。かけるべき言葉の1つも見つからずにこんな、とりあえず抱きしめとけみたいなありきたり演出に駆け込んでしまっている。もう少しやりようはなかったのかと、我ながら不甲斐ないことこの上ないが……。しかしあわよくば、私の経験談をもって聞かせてほしい」
「……?」
「こうしていると、どこか不思議と気持ちがホッとしてこないか。いや正直、私の体は一介の女としては人よりやや貧相なところがあるから、包容力という点ではあまり自信もないのだが。だから、もしまったく共感を得られないようなら言ってくれ。すぐに――」
そんな言葉の終わりを待たず、私もきゅっとテグシーさんの体を抱きしめ返していた。ありがたいことに、それを返事と受け取ってくれたのだろう。
「そうか。ならば良かった」
さらに引き寄せてくれて、頭をよしよしと撫でられる。
たちまち何とも言えない安心感がじんわりと広がって、私をいっぱいに満たしていくのを感じた。
それだけでもう感謝しかないのに。
テグシーさんはさらにお詫びを重ねるのだ。
自分がもっと早く気付いていればなんて、そんなことを。
そんなのはイヤで、絶対やめてほしくて。
私はすぐさま、首を横に振って否定する。
「なんで、テグシーさんが謝るんですか……? 違うじゃないですか。黙っていたのは私です。ウソを付いてたんですよ。本当はあったことを無かったことにして、たぶん何とかなるだろうってタカを括って……。その結果がこれなんです。だからテグシーさんが謝ることなんて何も……。むしろ、謝らなくちゃいけないのは私の方で……」
「ああそうだね、アリシア。確かに今回、キミの振舞いにも良くないところはあっただろう。そこは重く受け止めなければならない。でもね、よく考えてほしいんだ。この件でキミが悔いるべきは、決して私たちを欺いたこと自体ではないはずだよ。だってそれは自身を守るためではなく、他者を慮って付いたウソなのだから。そうと分かっているものを、私は糾弾なんてできない。したくないんだ」
「…………」
「だから、間違えないでほしい。今回のことで何より問題だったのは、キミがそうしたことによって私たちの判断を誤らせてしまったことだ。キミは私たちから、キミを正しく守る術を取り上げてしまった。後出しだって一向に構わなかったんだ。困ってるって、キミ自身の口から打ち明けてほしかった。私が言いたいのはそれだけで――」
声にならない声が漏れて。
ポロポロと一度溢れ出してしまったそれは、もう止まらなかった。
「ふむ、すまない。少し冗長になってしまったか」
「あの、テグシーさん……私……」
その先を言葉にできずにいると、またぎゅっと抱きしめられる。
どんなに苦しかっただろうって、また謝られてしまって。
背中をポンポンとさすられて。
「私……」
それで決壊してしまう。
今までため込んできた感情が、不安が。
ぽつりぽつりと、覚束ない言葉になって、止めどなく。
そう、苦しかったのだ。あのとき。
冷たい水のなかに、何度も閉じ込められて。
本当に息が続かなくなるまで、外に出してもらえなくて。
やめてほしいって何回もお願いした。
助けてって声を張り上げたけれど。
ぜんぜん聞き入れてもらえなかった。
そのうえ何かも分からない薬を、いっぱい打ち込まれて。
本当に死んじゃうかと思った。
暗くて、怖くて、心細くて。
言っているうちにだんだん、そのときの気持ちが蘇ってきてしまったのだと思う。
最後にはボロボロと、小さな子どもみたいに泣いて。
泣きじゃくって。
溜めこんでいた感情が、流れていく。
やっと流し出せる。
大丈夫、よく頑張ったと。
そんな私をテグシーさんはずっと、いつまでも慰めてくれていた。