7-10.「消えない音」
抑えようにも抑えの利かない、水への恐怖心。
それはあの一件以降、ずっと私を苛み続けてきたものになる。
怖いのだ。水が。
見たり聞いたりすると体が強張り、全身の震えが止まらなくなる。
ときには呼吸さえも苦しくなってしまうほどに、私は水と関わるものの多くに今まで通り接することができなくなっていた。
いや、これでもまだ多少はマシになった方なのだ。
それこそ最初は水を飲んだり顔を洗ったりと、日常の些細なことにもいちいち、心の準備を要するような有様だったから。
まだ湯舟に浸かることは難しくても、目を閉じ耳を塞ぎながらならシャワーだって浴びれるようになった。騙しだましでも快方に向かっている兆候はあって。
この調子ならと、前向きになれていたときもあったのだけれど。
途端にダメになってしまったのは先週、この止まない雨が降り始めてからのことになる。断続的に降り続き、ピチャピチャと止まない雨音に私はひどく消耗させられていった。
日を追うごとに、差し迫るかのような不安が強くなっていく。
きっと一過性のものだろうって、意を決して窓辺に近づいてみたりもしたけれど。
症状は改善するどころか、ひどくなっていくばかりだった。
あろうことかその夜は、あのときの苦しみをそのまま夢に見て飛び起きてしまって。
全身汗だくになって、息切れを起こしながら。
まだ止んでくれていない雨音にベッドの上、私は体を丸めるしかなくなる。
お願いだから早く止んで、と。
耳を塞ぎながら、声にならない声を震わせて。
このときにはもう、ただ眠りにつくことさえ怖くなっていた。
◇
この雨さえ止みあがってくれれば大丈夫。
また普段通りの生活に戻れるからと、ゼノンさんにも誰にも打ち明けずにいた。
たぶんギリギリで誤魔化しきれているかな、なんて思っていたのだけれど。
どうやら見積もりが甘かったらしい。
というか、テンでダメだったみたいだ。
さすがはゼノンさんということなのか、単に私がヘタだっただけなのかはともかくとしても、とっくに見破られていたのだろう。
「アリシア……」
悄然としたゼノンさんからの呼びかけに、大丈夫ですよと。
私はいまできる精一杯で、ニヘリと笑い返すくらいしかできなかった。
ビチャビチャと目の前に水をまき散らされた。
たったそれだけのことで震えの止まらなくなってしまった体を、どうにかこうにか押さえ付けながら。
「大丈夫って、どこかだ。全然そんな風には……」
「平気です。ちょっとビックリしちゃっただけですから……。すぐに落ち着きますから……」
「いつからだ……? いったいいつから、こんな……」
まさか、と。
当惑でいっぱいだったゼノンさんの言葉が、そのときふいに途切れた。
加えて。
「そうだろうな。タイミングからして、そのときしかあり得ない」
もう1つの沈着とした声が、ひたひたと軽い足音とともに近づいてくる。
「だとしたら済まない、ゼノン。これは私の失態だ。もっとよく、問い質してでも確かめるべきだった」
「なに……?」
「私が言ったんだ、彼女に。話したくないことは無理に話さずとも構わないと、聴き取りを始めるまえには決まり文句のようにね。でもだからと言って――これは想定外だよ、アリシア」
どこかやるせなさそうにしているその声からは静謐とした怒りや諦観、失意など様々な感情が読み取れて。
ちなみに、そう。
いま2人が驚いたような反応を見せているのは、無理からぬことになる。
なにせ私はまだ、誰にも話していなかったのだ。
あのとき地下で何があったのか、その事細かな詳細については。
もっと言えば、テグシーさんにはウソを付いてまでやり過ごしている。
だってもうその真相を知っていてかつ、証人になれそうな人は私しかいないみたいだったから。だったらいっそ無かったことにしてしまおうと、そう思って。
というのも、その方が何かと都合が良かったからだ。
話さなくていいなら私は楽だし、捜査に必要な情報とも思えない。
何より――。
ともあれ何か申し開かなくてはと、口を開こうとしたのだけれど。
そのとき、あろうことかフラッシュバックが起きてしまった。
ありもしないはずの水音がまたビチャビチャと、頭のなかにまき散らされて。
たまらず私は悲鳴をあげる。
恐怖のあまり顔を上げることもできないまま、誰にともなく謝罪の言葉を繰り返すしかなかった。
ゼノンさんの声がする。
私の名前を呼んで、大丈夫ここには何もいないと背中をさすりながら励ましてくれて。
なのに――。
一度始まってしまった発作のようなそれは、ちっとも収まってくれなかった。
私はただその場に背を丸めて、浅い呼吸を繰り返すしかない。
「おいアリシア、しっかりしろ! くそっ、なんでこんないきなり……!?」
「しまった、そういうことか……! 裏目に出ている!」
2人がなにか話しているけれど、ダメだ。
よく聞き取れない。
くぐもって、徐々に遠ざかって。
「すまんゼノン、いったん2人になる!」
最後にパンと、乾いた物音だけを聞いた気がした。
◇
パンと、両手を叩き合わせたみたいな乾いた物音。
それを聞いてからというもの、耳に届いていたのはずっと1つの声音だけだ。
最初は何を言われているのかも、よく分からずにいた。
ただ1つだけ確かだったのはそのあいだ、ずっと誰かの手が私に触れていたということ。
宥めるみたいに、落ち着かせるみたいに。
ポンポン、ヨシヨシと。
その手はずっと、私の髪を梳いたり肩のところを優しく撫でつけてくれたりしていた。枕になってくれている何かも、人肌みたいに温かい。
これはたぶん、誰かが膝枕をしてくれてるのだろう。
今よりずっと小さかった頃にもそんな記憶があって、とても安心する。
ほぅと安堵の息が漏れた。
今にもまた水の音が聞こえるのではないかと、さっきまで怯えすくんでいた心が。徐々に解きほぐされ、戻ってくるのを感じて。
でも、いったい誰が……?
それを確かめようと恐る恐る目を開けたら、そこにあったのはいろいろと驚かされる光景だった。
「やぁアリシア、これで少しは落ち着いたかな」
私を見下ろしながら、膝枕を貸してくれていたのがテグシーさんだったこともそうだが。何より、周囲の様相がまるで別世界みたいに一変していたことが大きい。
なにせ、さっきまで薄暗い地下にいたはずなのに。
打って変わってそこに満ちていたのは、柔らかな金色に満ちた光景だったのだから。
どうやらドーム状に膨らんだ空間の内側にいるみたいだが。(見渡す限りのぜんぶの壁がコットン状の繊維に覆われ、フワフワしているのが見て取れる。)
いったいこれはと目を見張る私に、テグシーさんは続けた。
「安心していい、これは私の魔法によるものだからね。つまるところ、私がいつも使っているベッドみたいなものさ」
「え、ベッド……ですか?」
「そうだ。捏ねた生糸をビュビュビューっとやって、編み込むみたいにしてこさえる。もっぱら私が幼少のころからの得意技なわけだが……。これがまぁ外から見ると繭のようにしか見えなくてね。あまり人前でやると、グロテスクだのなんだのとクレームが来るので控えるようにはしている。だが今は緊急時と判断で、こうなった。言ってしまうと、さっきと場所は変わっていないのだが」
「…………」
「これなら多少なり、閉塞感も紛れるだろう?」
柔和な黄身色の天蓋を見上げながら、そんなことを。
「すみません……。ありがとうございます」
「構わないさ、むしろこちらも配慮が足らずに済まない。いや、正確には裏目に出たのだろうな。今回話をするにあたって地下を選んだのは、キミを外の雨音から少しでも遠ざけるためだったが……。ここが地下だったからこそ、他のどんな場所よりも水と掛け合わせてはいけなかった。その理解であっているか、アリシア」
「……はい。たぶん、そういうことなんだと思います」
「つまりキミはまだ、あのときのことで――。私やゼノンにも話していないことがある。そういうことだね?」
コクリと、私は再度頷く。
ともすれば次はきっと「なぜ言わなかったのか」と、それを聞かれると思った。
予想は間違っていなかったけれど、そのまえにテグシーさんは言うのだ。
ここはさっきと同じ場所だから外にはゼノンさんがいるけれど、防音性に優れているから今のやり取りも聞かれていないと、そんなことを。
こうしてわざわざ2人だけで話せるようにしたのは、それも理由に含まれていることを示唆したうえで。
「これは私の予想に過ぎない。だから、もし違うというなら否定してくれ」
「……?」
「ゼノンに知られたくなかった。それが今回、キミがこのことを打ち明けずにいた理由だろうか?」
すべてを看破するその問いかけに、私は力なく首肯するしかなかった。