1-6.「さよならマイホーム、いろんな意味で」
翌朝のこと。
いつもより早く目の覚めた私は少ない荷物をリュックサックにまとめた後、久しぶりにとある絵本に目を通していた。
忘れ物がないかをチェックしていて、そういえばと最後に思い出したのがそれだったのだ。私の育った孤児院では、里親を見つけて卒業していく子は記念に1つだけ好きな絵本やオモチャをどれでも持っていってよいことになっている。
私は事情が違ったけれど。
最後の我がままだと思って、内緒で持ち出してきてしまったのがこの絵本だった。まだ小さかった頃、なかなか寝付けなかった夜によく読み聞かせてもらったのだ。
それは開けばものの数分で読み終わる、実に単純で子ども向けのストーリー。でも私はこれが好きで、毎日のように読んでとせがみに行ったし、絵を書いて遊んでいたりもした。
使い古されてあっちこっち擦り切れているし、破られてテープで補修された痕やよだれのシミなんかで、本自体はもうボロボロになっている。読み返しすぎて、たぶんソラでも語り出せるくらい内容も覚えてしまっているけれど。
それでもこうしてたまに読み返すとやっぱり懐かしくて、気持ちをあの頃に帰してくれる。そんな、私にとってはとても大切で、かけがえのない思い出の品。私があの場所にいたことを示す、数少ない痕跡の1つで。
これを置いていくだなんてありえない。
ゆっくり最後のページまでめくり終えてから、それも大切にリュックのなかにしまい込む。そうして準備ができたところで立ち上がり、改めて室内を見渡す私だった。
気付けばもう半年近くにもなるのか。
そんな感慨深さもあって、物思いにふける。
勝手に住み着いておいて何だが、ここだって私にとってはもう我が家と呼べる場所なのだ。呼んではダメだけど、気持ちはそうだった。すごくお世話になった。でももしかしたら、これが最後になるかもしれないから。
「どうも、ありがとうございました!」
ペコリと頭を下げる。
心からの感謝を込めて、数秒間たっぷりと。
それから晴れ渡った気分で顔をあげて。
「なにやってんだ?」
「ひゃあああっ!」
途端に悲鳴をあげ、飛びあがった。
ドギマギしながら飛び跳ねるように振り返れば。
「いや、そんなに驚くかよ」
そこにいたのはゼノンさんだ。
実にはた迷惑そうな顔つきで、そう見咎められて。
「ぜ、ゼノンさん……!? いつからそこに」
「今だよ。何してんだ、おまえ?」
「ええと。このお家にその、お礼を……。今日まですごくお世話になったので」
「礼? 勝手に上がり込んだ人ん家にか?」
「そうですけど……」
「図々しいな」
「そうですけどっ!」
何も反論できず、うわーんとなるしかなかった。
というか、今のを見られていたと思うと恥ずかしい。
こういうのはケジメだ。
その方が自分がスッキリできるからやったことで、なにも本当に感謝の気持ちが伝わるとか普段からそんなお花畑みたいな発想でいるわけではないのだ。
だからその「なんだこいつ」みたいな視線やめてほしいー!
その辺りまで申し開くか迷っている間に、ゼノンさんは行ってしまう。
「まぁいい、準備ができたら出発するからな。もたもたするなよ」
「は、はい……」
あとから恥ずかしさがこみ上げてくる奴だった。
◇
外に出ると、切り株に腰かけて待っているゼノンさんがいた。
待たせてしまったようで、パタパタと駆け寄る。
「すみません、お待たせしました」
「なんだ、やけに身軽だな。荷物はそのリュック1つだけか?」
「はい。持ってきたものがそもそもそんなに多くないので」
「……そうか、それならいいが。忘れもんはねぇな? これが最後だからな、もう取りには帰れねぇぞ」
「はい、大丈夫です!」
そう受け応えてから、私はくるりと振り返る。
いつかまた、此処に戻ってこれたらいいな。
もしかしたらそれも、すぐのことになるかもしれないけれど――。
色々なことを思いながら、最後かもしれないと思って見納める。
そうやって名残惜しさとお別れし、いざ出発しようとしたときだ。
「よし、離れてろ」
ヒュル、と近くで風きり音を聞き取ったのは。
いったい何かと思えば、ゼノンさんがお家とは反対方向に向き直り、何やら手のひらを向けているではないか。
「へっ?」
たちまち渦巻き、収束するただならない力の気配を感じ取る。
いったい何をしているのかと思いきや、次の瞬間。
ド、ゴォオオン。
凄まじい轟音とともに、辺り一帯が大きく吹き飛ばされて。
地面ごと抉り取るような大破壊が巻き起こるとともに、幾本もの木々がメキメキメキと地響きを伴いながら倒れていく。しかも事はそれだけに留まらない。
まさかだった。
倒れたうちとりわけ太い一本をジャリン、伸ばした鉄鎖で捕まえたかと思えば。
ドデンと横倒しにしてゴロゴロドスン、そのままお家の入口を塞いでしまったのだから。
「なっ……なっ……!」
それはものの数秒のあいだに行われた暴挙。
「よし、こんなもんか」
「なんでえええええっ!?」
あまりの無体に、私はただ悲鳴をあげるしかなかった。
◇
思い出のたくさん詰まった場所にもう帰れない。
それはとても悲しくて、寂しい気持ちになるものだ。
いやべつに壊されたとかじゃなくて、物理的に塞がれただけだけれど。
そういう問題じゃない。誰だってショックだろう。自分が大切にしていたものを目のまえで、いきなりあんな風にされたら。
そう。
たとえそれが、勝手に上がり込んでいた他人の家であったとしても。
「なんで、なんでぇ~!」
「…………」
というわけで、山道を下りながらびえーんとなっている私だった。
前を行くゼノンさんにトボトボと付いていく様子は、さながら駄々をこねる子と構いきれない親のような構図になっている。
後ろから泣きわめかれてやかましかったのだろう。
しばらくは黙していたゼノンさんだったが、ついに「だぁうっせぇな!」と抗議されてしまった。
「なんでおまえが泣いてんだよ! いいか、あれは俺ん家だ! どうしようと俺の勝手だろうが!?」
「そうですけど、そうですけど! でも私にとってだって、あそこはもう大切な場所だったんです! 半年近くも住んでた、それこそもう我が家みたいな……!」
「勝手に我が家にすんな! 俺ん家だ、おまえがやってたのは不法占拠だ!」
「でも私にとっても大切だったんですよぉ! それをあんないきなり……!」
「だから聞いたろうが、忘れものはねぇかって!?」
「それがあんなことする合図だなんて誰も思いませんよ!?」
「知らねぇよ!」
言い分としてはゼノンさんが完全に正しい。
こちらが立てつく余地もないほど、完膚なきまでに。
そんなことは分かっている。
でも理屈じゃなくて、いろいろ心の整理とか追いつかなくて訴えかけるしかなかった。
「べつにいいだろうが、もう帰ってくる予定もなかったんだからよ」
「……。でもだからって塞ぐことないじゃないですかぁあ」
喪失感にかられ、シクシクするしかない。
そんな私に見かねてか、ため息混じりにゼノンさんは言った。
「辻褄合わせだよ」
「……え?」
「『イルミナ』がどうなったのか。そこはまだ考え中だが、いずれにせよ俺が報告したあとこの森には調査団が入ることになる」
「調査団?」
「そういう奴らがいるんだよ。俺が魔女をわざと逃がしたりしたとか、そこら辺の奴隷商にでも売り渡したりしなかったかとか、そういうのを調べる連中がな」
おかしいだろうが、とゼノンさんは続ける。
つまりはあの場に、『イルミナ』と争った痕跡の1つもなければと。
「ええと。じゃあつまり、私のため……?」
「一応な。ついでにカモフラージュ、証拠隠滅だよ。分かったらいつまでもウジウジ言ってんな。あの家が見つかったらおまえにとってもいろいろ不都合なことくらい、考えれば分かんだろ」
「……そっか」
そういうことだったのかと、ポツリ呟く。
そんなところまで全然、気を回せていなかったのだ。
もしかしたら、またすぐ帰ってくることになるかも。
そんなことばかり考えていたから。
「ご、ごめんなさい。そうとは知らずに……。ありがとうございます」
しょんぼりお礼を言ったところ、けっと吐き捨てられてしまった。
そう、冷静に考えれば何も問題はないのだ。
入口がすっかり埋もれてしまった切なさは別にしても。
無事にこの森から出られさえすれば、なにも――。
「それより、なんだ……? やけに霧が濃くなってきたような」
どうか、このまま何も起こりませんように。
そうなってくれることを、このときの私はただ祈るしかなかった。