6-12.「消沈、そして再燃」
それからの日々をどう過ごしたのか、定かなことはアレクセイも覚えていない。
ミレイシアと過ごした日々が過去のものとなってしまった。
そのときもいたく消沈したものだが。
今回の出来事はそれ以上で、比較にもならないレベルで突き落とされていた。
なんと形容すればよいのか、この虚無感を。
少なくとも絶望とか、喪失感なんて生温い表現ではまったく足りない。
ただただ、どん底だった。
すべてを失い、残ったものは何も無い。
世界のすべてが色彩を失くし、モノクロになってしまったようで。
「なぜ……」
地下にある研究室の片隅に座り込み、もはや握り込む気力もない拳のなかにそう問いかける。かつての想い人と輝ける日々を思い返しながら、深い哀惜と傷心に身を浸して。もはや幾度繰り返したかしれない、その自問を。
でもやっぱり答えは見つからなくて、たちまち涙が込み上げた。
分かっているのだ、頭では。
これ以上思い悩んだところで、もうどうにもならないことだと。
だってもう、彼女は穢れてしまった。
汚されてしまった。
アレクセイが恋い焦がれた純粋無垢だったころの彼女はもう、この世のどこにも存在しない。
完全だったからこそ愛せたのだ。
そうでなくなってしまったミレイシアを、アレクセイはもう愛することなんてできない。今やそのすべてが呪わしくて、忌々(いまいま)しい。そのはずなのに――。
何故か、消えないのだ。
かつて向けられた、あの花咲くようなにっこり笑顔だけがどうしても。
忘れ去ることができない。
バカな。
今さらなんの未練があるというのか。
こともあろうにあんな不良男に靡いた、尻軽女に。
散々、思い知らされたことだろう。
あれはとんだアバズレだ。
シモの緩い淫乱女だ。
ふざけるな。
こんなくだらないものまで作っておいて、まだ踊らされる気なのか。
いい加減にしろと、投げつけたポーション瓶をガチャンと石壁に叩き割る。
消えろ、消えろとひたすら頭をガンガンする。
振り払いたくて、忘れ去りたくて。何度も、何度も。
それでも消しきれなくて、そんな自分のことが心底イヤになった。
「何をやっているんだ、私は……」
もうどうでもよかった。
何もかもが、どうだって。
もう疲れてしまったのだと、そんな無気力感とともに。
見上げた天井に向かって、深い嘆息を漏らす。
ただ、今は……と。
薄暗い地下で一人、泥のような眠りにつくアレクセイだった。
◆
それからもしばらく、アレクセイの生きる屍のような日々は続いた。
起き上がったは良いものの何をする気にもなれず、ただぼぅとして1日を過ごす。前回はミレイシアと再会できることをモチベーションに、『薬』に没頭して持ち直したが。
今回はそれを、根本から掘り返されてしまった形だ。
(これが世にいう『失恋』であるとは認めたくなかったが……。)
立ち直るきっかけとなる何かが見つからない以上、時間が解決してくれるのをただ待つばかり。そんな、あくる日のことになる。
ずっとこうしていても気が塞ぐだけと、久しぶりに出ていった街なかでとある噂話を耳にしたのは。それは偶然通りがかったところで、『オーレリー家』というワードを敏感に捉えてのことだったのだが。
「え、オーレリー家の長女……? それはもしや、ミレイシア・オーレリーのことでは……?」
驚いた。
聞けば何でも、ミレイシアが治癒の魔法を使えなくなってしまったというではないか。正確には弱体化した、とのことだが。
しかも話はそれだけに留まらない。
そこに『呪鎖』、ゼノン・ドッカーが関わっているのではないかとも、同時に囁かれていて。
いったい、どうして……?
帰路につきながら一人、アレクセイは思案した。
だってそんなことはない、はずなのだ。
無論のこと、擁護する気なんてさらさらないが。
ゼノンに近づくと魔法が使えなくなる。弱体化する。それがおそらく事実でなく、根も葉もない与太話とはアレクセイもよくよく弁えていることだったから。
でも、だとすると何故なのか。
その答えが見つからなかった。
何故ミレイシアの、治癒の力が突然弱まって……?
ブツブツとそんな風に思索も巡らせてしまったが。
途中でバカらしくなってやめた。
知ったことではないのだ。
今さらミレイシアがどうなったところで、自分には関係ない。
もう終わったことだ。
あえて理由を付けるなら、バチでも当たったのだろう。
自分ではなくあんな男に尻を振った、その報いが。
ざまを見ろだ。
ハンと笑い捨ててやると、気分もいくらか晴れやかになって。
だが、あくる日。
アレクセイはまた、そのことについて考えていた。
研究者の性ともいうべきものか。
どうしても気になってしまうのである。
前提を突き合わせた結果として得られるものが予測なら、予測されない結果が得られたとき、そこには必ず何かしら前提エラーがあるはずだ。
なればこそ、『あり得ないなんてことはあり得ない』のである。
それはアレクセイにとっての格言であり、自らを研究者たらしめてきた譲れぬモットーだった。
矛盾を見つければ、その先に在るだろう空白を埋めにかかりたくなる。
徹底的に、完膚なきまでに、洗練された唯一解を叩き出したくなる。
まさかその欲動に駆られぬ輩に、研究者を名乗る資格などありはしないのだから。
というわけで持てる手を尽くし、ゼノンの近辺を改めて徹底的に洗い始めたアレクセイである。掻き立てられる探求心のまま、水を得た魚がごとく、捜査は足で稼げと言わんばかりに躍動した。
すると出るわ、出るわ。
なぜ今まで気づかなかったのかと天を仰ぎたくなるほどの不可解が、わんさかと。それはもう煙たくなるほどに。
そうしてついに、アレクセイは辿り着くことになる。
最初はてっきり、よくある恋愛感情のもつれによるものと睨んだのだ。何かの理由で関係が破綻し、その腹いせにゼノンがミレイシアに何かしたのではないかと。
もしそんな下らない結末が答えであるなら、アレクセイはそれを闇に放るつもりでいた。今度こそミレイシアのことを吹っ切ろうと心に決めていて。
ところが途中で、まったく別の見解が浮上したのだ。
まさかそんなわけと、最初はアレクセイも本気にしていなかったことになる。
だがそう考えると、すべての辻褄が合うのだ。
アレクセイが見てきたもののすべてに説明がつく。
1本の線となって、ピッタリ繋がって。
「まさか……」
そしてようやく真実に辿り着いたとき、彼はとっさに言葉が見つからなかった。
導かれたその答えは間違いなく、他でもないアレクセイの望んだ期待値だ。
だが同時に、望めない負の答えでもあった。
できることなら、間違いであって欲しくて。
しかしもう、疑うべくもない。
その裏付けとなる証拠が、あまりに揃いすぎているから。
まず導かれた正の答えとは――。
やはりゼノン・ドッカーの本性が、恐ろしい魔性と猟奇性を秘めた魔人だったということだ。
こちらについて驚きはさほどない。
そうでないかと、ずっと前から思っていたから。
やっぱりなと。
だが問題はもう一方の、負の答えの方である。
こちらも捉えようによっては正の答え、つまりはアレクセイの望んだ期待値になるのだが。
その肯定は、1人の女性をあまりに深く傷つけてしまう。
他ならぬミレイシア・オーレリー、その人を。
「なんて、ことだ……!」
どうしてもっと早く気づけなかったのかと項垂れ、アレクセイは己が迂闊さを呪った。
「ミレイシア殿……申し訳ございません……。私は……私は、あなた様を……」
それから机に突っ伏し、次第にオウオウと泣き咽んで。
だって彼女は、自分を裏切ってなどいなかったのだ。
それが分かった。分かってしまった。
ほかの誰でもない、ミレイシア・オーレリーこそが――。
「ミレイシア殿おおおおぉーーーーッ!!!」
魔人ゼノン・ドッカーの、最大の被害者だったのだから。