10-17.「禁じ手」
グッと腕に力を込め、ミレイシアは何とか立ち上がった。
そして2人のもとに駆け寄る。
「良かった、リリーラ! 無事だったのね」
「ミレイシアか……」
敵を警戒しているのか、こちらに目線も寄こさないままジッと相手だけを見据え、低い声でリリーラは応じた。彼女ももう、よほどボロボロだ。頭の血なんか乾いているところもあって、とても痛々しい。
「待ってて。魔力ももう残り少ないけど、あと1回分くらいなら何とか……」
だからすかさず治癒をかけようとしたのだ。
でもそれを遠ざけたのはリリーラ自らだった。
「アタシはいい。それより早く下に行ってくれ。テグシーを、診てやってくれ」
「え、テグシー……? そういえばテグシーは……? どうしたの……?」
「まだ下にいる。目を、覚まさねぇんだ……。アタシを庇って、血もいっぱい出ててよ。あのままじゃ……」
次第に震え出したリリーラの涙声から、事態の火急さを察する。
幸い、階段はすぐ後ろだった。
少し乱暴にはなってしまうけれど。
「アリシアちゃん、行こう! 立てる!?」
「へ……? ちょわっ……!?」
アリシアの手を引っ張り、タタタと地下への階段を駆け下りていくミレイシアだった。
「…………」
そうして2人を行かせると、場に満ちたのは風の吹き抜けるような物音だけだ。
徐々に視界が晴れ、辺りの状況が明らかになる。
けほっ……。
まず最初に見つけたのは壁際に身を寄せ、咳き込んでいるウルだ。
土埃にまみれてはいるが無事だった。
ついでにとっさに引き寄せたか、光狼獣を抱えている。
それから近くにあった瓦礫の山に手を伸ばし、ガラガラとまさぐるように掴み出したのはもう1人。
「アニタ、アンタも無事かい?」
「リリーラ様……。はい、何とか……。ジーラが庇ってくれました」
アニタの周りだけやけに岩がゴロゴロしていると思ったら、そういうことだったらしい。僅かしか原型を留めていない岩の人型が、巻き起こった衝撃の凄まじさを物語っていた。
起きていたアリシアも含め、これで無事を確認できたのは4人。
でもどうやら、それだけらしい。
「ほかの皆は……」
「ウルはあそこにいる。あとは見ての通りさ」
大破した岩人形の次、リリーラの応じを受け、アニタもその惨状を知る。
リオナ、ルーシエ、ライカンの3人もすぐに見つかったが、動かないのだ。
ルーシエはともかくとしても、ほかの2人がやられたフリをすることはないだろう。
だからもう、残っているのは自分たちだけで――。
「そんな……」
そのときバランスを崩しかけたのは、リリーラが動いたからになる。
軸足は残したまま、見るからに満身創痍な体をズシリと前のめりに。普段はむんずと鷲掴みしそうなところ、手のひらを閉じ切らないままウルのところで下ろして。
「アニタ、まだ動けるかい」
「……申し訳ありません。私ももう、魔力が」
「バカ言ってんじゃないよ……。あそこで伸びてる連中をここから運び出せるかって、そう聞いてんのさ」
「それは、はい……。できると思いますが」
「ウル」
「……うん、私も平気」
「なら2人で、頼んだよ」
一方的に告げるなり、またズシリと姿勢を戻そうとする。
再びマーレに向き直ろうとしていて。
「待ってください!」
すかさずと待ったをかけたのはアニタだった。
「どうなさるおつもりですか!? まさかリリーラ様、お一人で……!?」
「決まってんだろう。他に何があるってんだい」
「ですが……! ……!? ダメですッ! やめてくださいッ!!」
「アニタ……?」
途中ウルが不可解に思ったのは、何かに気付いたかのようにアニタの様子が豹変したからになる。だがその問いかけにも構わず、悲鳴のような声音でアニタは訴えを続けていた。
分かったからだ。今のやり取りで確信した。
リリーラがいったい何をするつもりでいるのか、その腹積もりが。
だから自分たちを此処から遠ざけようとしていて。
でも嫌だった。
して欲しくなかった。
だって相手は、あのマーレだ。
アニタは知っている。
リリーラがどれほど彼女を愛していたか。
喪ったときの悲しみも。
確かにそれをすれば、この状況を切り開くことはできるのかもしれない。
でも平気なわけがなかった。
どんなに変わり果てても、今のように襲いかかって来られても。
あれはマーレで、リリーラにとっては誰より大切だった人のはずで。
そのうえリリーラだって、もうそんなにボロボロなのに。
「そんなことをしたら……。リリーラ様が……」
分かっている。
もはや他にやりようもないなんて、そんなことは。
だけどそれでも嫌で、アニタは涙ながらに声を震わせた。
懇願した。
「やめてください……。お願いします」
「…………」
けれどリリーラはそれを聞き入れない。
聞き入れられない。
だから指先で、そっと忠臣の頭を撫でるに留める。
「頼んだよ」
短く、ただそれだけを言い残してズシリと。
リリーラは再び、マーレとの相対に戻っていくのだった。
心願を聞き入れてもらえず、アニタはその場に取り残される。
グスンと鼻を鳴らす。
けれど感情に引きずられ、その場に長らく留まるようなことはない。
「ウル、急ぎましょう……。早く、みんなを……!」
「う、うん……」
涙を拭ってから、すぐにも動き出す。
アニタが誰より敬愛と信愛を寄せる主人の、それが言いつけなのだ。
もはや自分にできることがそれしかないというなら、迅速に事に当たるしかない。
濃霧で視界を遮り、その間に倒れている負傷者を全員、ウルが魔法で宙に浮かせて退避させる。そのまま反対側の通路へと駆けだして。
「ねぇアニタ、リリーラは何をする気なの……?」
「それは……。いえ、今はとにかく……!」
走りながらウルからの問いかけに、アニタは答えなかった。
一刻も早く、この場から離れることを優先する。 去り際の最後、もう一度だけリリーラを振り返り、その武運をどうかと祈ってから場を後にするのだった。
そして――。
「行ったようだね……」
アニタたちの後ろ背も見えなくなれば、いよいよ盤面に残るのは大小2つの影だけだ。
リリーラとマーレ。
異様なまでの静けさのなかで、佇む両者の膠着状態は続く。
でもこのまま無闇に殴りかかるのでは、またさっきのような失態を犯すだけなのは明白。だからリリーラは静かに、静かに高めていった。
それはいわゆる、禁じ手だ。
かつて暴走にも近い状態となり、もう二度と使わないとテグシー、そしてミレイシアとも固く約束させられた力。
気付いてしまったのである。かつてのある日。
何かムカつくことがあったときに限って、いつもより調子がすこぶる良くなっていることに。しかもムカつけばムカつくほど、体の奥底から力が漲り、湧き出る感じがしてくるのだ。
そして知った。
それが『魔法』というものの本質であることを。
ぶっ飛ばしたい奴がいる。
自らが最大限に力を発揮するために必要なのが、何よりその事実と感情であることも少しずつ分かってきた。
故にリリーラは、常にそれを心がけるようにした。
アイツもムカつく、こいつもムカつくと言い聞かせるように憎悪を膨らませ、無尽蔵に『怒り』を煮えたぎらせて。
その結果、傷つけたのがテグシーだった。
『やぁ、リリィ……。ようやくいつもの君に、戻ってくれたようだね……?』
自分でも信じられなかった。
気が付いたとき目のまえにはボロボロのテグシーがいて、ミレイシアが一生懸命に治癒している。
どうしたのか、その怪我は。いったい誰にやられたのか。
あろうことか何も覚えていなかった自分に、声を張り上げたのがミレイシアだ。
『誰がやったですって……!? なに言ってるの、ふざけないでよ! これ全部、あなたがやったんじゃないッ!?』
彼女は泣いていた。
見たことないくらい怒っていた。
悪い冗談だと思った。だけど。
『これを、アタシが……?』
何も冗談なんかではないことを周りの惨状と、ズキズキと痛む自らの握り拳が物語っていた。
そんなことがあったから、もう二度と繰り返すまいと決めたのだ。
それが思い出したくもない、かつて自身が犯した最大の過ち。
だけどもう、そんなことも言っていられないから。
このままでは何一つ、護れない。
みんな傷つけられてしまうし、傷つけさせてしまうから。
意識の深層で静かに、リリーラはその楔を外していく。
もう一度、己の内に確かめる。
目の前にいるあれは、なんなのか。
分かっているだろう。もうマーレではない。
まったくの別物だ。
もう、たくさんだ。
なんのために強く、大きくなったのか。
護るためだったのではないのか。
それなのに傷つけて。
護られて。
肝心なところで自分が迷ってしまったばかりに。
不甲斐なかったばかりに、みんなが傷ついたのではないか。
だったらもう、何も分からなくなってしまえばいい。
あれは、なんだ……?
今一度、深く。
自身を戒めるように、リリーラは己のうちに問う。
認識を上書きするとともに、『血』が騒めく。
そう、敵だ。
城域を犯す侵入者。蛆虫、害虫。
護るべき者たちを脅かす、危険極まる侵略者。
家に入ってきた虫はどうする。
決まっている。叩き潰す、それだけだ。
そうだ、それでいい。
駆逐すべき敵対者を駆逐する。完膚なきまでに。
いま自分のすべきことは、必要な理屈は。
たったそれだけで――。
「グァアアアアアアアアアーーーーッ!!!!!」
たちまち場に満ちたのは、がなり散らすようなリリーラの咆哮だ。
血を沸騰させ、感情を憤怒の一色に染め上げ、野性で理性を埋め尽くす。
荒れ狂う戦鬼へとなり果てる。
いわばそれは疑似的な『血の目覚め』にも近い状態だった。
けれど完全に、何もかもを見失ったわけではない。
自我まで喪失してはいない。
護るのだ。
もうこれ以上、傷つけさせない。
踏みにじらせない、そのために。
リリーラとマーレ。
グランソニア城、最後の争乱がいまここに幕を開ける。




