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9-40.「愛は届かず」


「ぬ、ぐおおおおおッ!??」


 落ちかける寸前、アレクセイがとっさに蹴りつけたのは、かろうじて足を残していた屋上の縁端だ。そうしてなんとか苦し紛れながらも飛びつく。ミレイシアを薄く囲っていた光の方陣、その上端にガッシと残された方の手指をかけ、どうにか掴まりぶら下がって。


 そうして寸でのところで、落下を間逃れることができた。

 酷使してしまったためか、蹴りつけた方の脚もそのとき、膝のところでちぎれて落ちてしまったけれど。


 でもおかげで身体が軽くなったことを思えば、それも僥倖ぎょうこうと言える。なにせもう、この片腕にしろあまり長くは持ちそうにない。落ちればまず命のない高さであることは、火を見るより明らかだから。


「み、ミレイシア……! よく見ろ、私だッ! アレクセイだッ!」


 だからそのまえにと、アレクセイは声を張り上げた。

 光の壁一枚をへだてたすぐのところで腰を抜かし、表情をひどく青ざめさせている彼女に向かって。


 だって自分が誰かさえ分かれば、ミレイシアは勘違いに気付いてすぐにも治癒キュアを施してくれるはずだから。そうしたら無くなってしまった腕や脚もたちどころに再生して、この見るからにやわそうな檻からも出してやれるから。


 なぜミレイシアがいきなり、屋上から飛び出すなんて無謀を犯したのか。

 なぜそれを敵対する立場であるはずのリクニが救ったのか。

 状況に不可解な点は数多くあれど、アレクセイはそれに気づかない。


 ただ必死だった。

 一刻も早く自分が誰かを、ミレイシアに気付いてほしくて。


 勿論ケガを治してほしいこともある。

 だがそれ以上に、もう耐えられないのだ。

 この世でもっとも大切な人に……いとおしい相手に自分が誰かも気付いてもらえない、こんな狂おしいほどのもどかしさは。あと1秒だって。


 だからアレクセイは何度も、懸命に繰り返した。

 私だ、アレクセイだと。

 永遠の愛を誓い合った最愛の妻、ミレイシア・ウィリアムにそれを伝えるために――。



「ちょっと待って……。アレクセイ……? アレクセイ、ですって……?」



 それだけに感無量だった。

 心に再び晴れ間が差し込み、胸がいっぱいになる。



「あなた、まさか……。アレクセイ・ウィリアム……なの……?」



 ミレイシアがそう、驚きを隠しきれない表情でこの名を口にしたのだから。

 そうだ私だと心から安堵し、ホッとした。


 そしてまた別の理由で過ぎゆく一刻、一秒がもどかしくなる。

 早く彼女と熱い抱擁ほうようを交わし、その金木犀きんもくせいの良い香りを胸いっぱいに吸い込みたいと。


 だがこの時、両者の認識には決定的なズレが生じていた。

 確かにミレイシアは相手が誰であるかをこのときようやく把握し、その名を口にしたわけだが。


 それは何も、アレクセイの顔が崩壊していたからではない。

 ずっと抱いていた違和感だったのだ。

 遭遇したときからその顔に、どこか見覚えがあるような気がしていたから。


 それが今、氷解する。

 彼が自らをアレクセイと、そう名乗ったことによって。

 一時、屋敷にかくまっていたある男のフラッシュバックが、凄絶せいぜつに巻き起こり――。


「そん、な……」


 たちどころにミレイシアは言葉を失った。

 自分の知っていたアレクセイといま目の前にいる彼が、体格から何まで大きくかけ離れていて気づけなかった。今の今まで。それによる動揺も、少なからずあるが。


 それ以上にミレイシアは知っていたから。

 彼が何をして、ここに収監されていたかを。

 当然そのことに、自分が決して無関係とは言えないことも。


 だから聞いた。

 パァと表情を輝かせ、何やらウットリしている彼に。

 息を呑むように口元を押さえながら、だったらと。



「――アリシアちゃんって子、知ってる……?」



 ドクン。

 ミレイシアがその名を口にした瞬間、ビリビリと。

 全身に電流が駆け巡ったかのような衝撃に見舞われたのはアレクセイだ。


 たちまち思考が冴え渡り、活性化する。

 そうだ、そうだったと血肉から沸き立ち、ワナワナと震えだす。


 だって、そうではないか。

 アリシア。アリシア・アリステリア。


 ミレイシアが口にしたその名は、知っているなんてものではない。

 この世でもっとも愚かで、排斥はいせきされるべき重罪人の名だからだ。


 あと一歩だった。

 あと一歩で自分は、真実に辿り着けるところだったのに。

 なのに、それを……。そこにアイツが、現れて……。


「あ……」


 まともに声も出せなくなるほどそのとき、アレクセイの脳内に膨大な情報量が一気に押し寄せる。それは錯乱状態にあったがためにフタをされ、半ば切り離されていた記憶だが。


 『浄化パージ』の光を浴びたことに加え、ミレイシアが口にしたアリシアというキーワードを皮切りに、閉ざされていた当時の記憶が一気に蘇ってのことだった。


 すべてを思い出す。想起される。

 あと少しのところで、アリシアから真実を聞き出せなかったこと。

 それを邪魔立てしてきたのが他でもない、ゼノン・ドッカーであったこと。

 そしてあろうことか、そのアリシアについさっき遭遇していたことも。


 そうだ、目の前にいた。いたではないか。

 だから自分はまたあの魔女を拷問にかけ、真実を聞き出さなくてはいけなかったのに。


 どうして見失っていたのか、そんな一番大事な目的を。

 自分はいったい、今まで何をして……?


 とんでもなく優先順位を間違えていたことに気付き、アレクセイは強く歯噛みする。確かにそこにいる2人が犯した罪も重く、度し難いほどに愚かしいが。


 今はそれよりも奴を。

 アリシア・アリステリアを見つけ出さなければと、そう思い立って。


「聞いてくれ、ミレイシア……ッ!」


 だからアレクセイは必死に声を張り上げた。

 他ならぬ彼女を救うため、自分が暴いた真相を。

 魔人ゼノン・ドッカーの真実を、まずもって彼女に届けるために。


 時間さえあれば、もっと事細かに話したいところではある。

 でも今は刻一刻を争う。早くしなければ、またあの魔女が逃げてしまうかもしれないから。だから口惜しくとも、肝要なところだけをかいつまんで手短かに話すしかなくて。


 とにかくと矢継ぎ早にアレクセイは告げる。

 ゼノン・ドッカーが危険極まりない男で、ずっとおまえを騙していたんだとそのことを。あの魔女アリシアにしたって分かったものではない。


 自分だって、あと少しで殺されるところだったのだ。

 きっとこちらが真実に近づきすぎたものだから、口封じのためにそうするつもりで。そうに違いなくて。


 混乱した頭で、混濁した記憶で。

 アレクセイは声を荒らげ、まくしたてるように言いつのった。

 目の前で動揺を隠しきれずにいる、ミレイシアに向けて。


 辛い現実かもしれない。

 一度には到底、受け入れきれないかもしれない。

 でも大丈夫だから。自分だけは、おまえの味方だから。


 心を強く持ってほしいと、その一心で。

 夫としてアレクセイは、愛する妻に励ましの言葉をかけ続けていた。

 だが、そのときだ。



「ねぇ……。さっきから、何を言ってるの……?」



 他ならぬミレイシアから、あらぬ問い返しを受けたのは。

 今しがた自分の展開した論に抜けはない。なかったはずだ。

 そんな自負があったからこそ不意を突かれ、アレクセイは停滞してしまう。


 いったい何が。どこが分からなかったというのかと。

 いや、不明点があるなら言ってくれればいいだけなのだ。

 どんな疑問が飛んできたって即答できる自信が、アレクセイにはあるから。


 だけどそう問い返してもミレイシアは何も言ってくれないし、ずっと同じところでへたり込んだまま動かない。だからアレクセイとしても、どうしていいか分からなくなって。


「ど、どうしたんだ……? ミレイシア……?」


 何より、不可解だった。

 どうして今ミレイシアはそんなにも、怯えたような表情でこちらを見据えているのかと。そんな無理解と軽蔑に満ちた、見たこともない怪訝けげんな顔つきで。


 いや、そんな場合でもない。そろそろ腕の限界も近かった。

 まだ話の途中ではあるが、改めてアレクセイはミレイシアに申し入れる。

 ひとまずケガを治してくれないかと。


 だけどそれにもミレイシアは応じなかった。

 おろか、その瞳に光がうるむのが見えて――。


「なんで……っ」


 アレクセイは大いに戸惑った。

 なぜ突然、ミレイシアは泣き出してしまったのか。

 その所以ゆえんがちっとも分からなかったから。


 愛する妻が目のまえで泣いている。

 ならば一目散に駆け寄り、大丈夫だ自分がいると安心させ、抱きしめてやるのが夫のつとめというものだろう。でもそのためにはミレイシアの治療が必要で、アレクセイはそれを求めた。


 でもミレイシアは泣いてばかりで、ちっともそうしてくれない。

 ただ悲しそうにしながら何度も、目元を拭っていて。


「なんでそんな、酷いことをしたの……!? あなたがそんなことしたから、リリーラは……。あの子だって、ずっと……! あなたのせいで……!」


 まったく理解が及ばなかった。

 いったい彼女が何にそんなにも心を痛め、悲しんでいるのか。

 オロオロして、そうこうしているうちにもう腕が限界で。


「み、ミレイシア……! 頼む、早く治癒キュアを……!」


 痛切に、訴えるようにアレクセイは言う。

 このままでは本当に落ちてしまうと青ざめる。


 何が必要か。

 ミレイシアの心を落ち着かせるため、いま自分にできることは何か。

 アレクセイは必死に考えた。そして解を得る。


 簡単だ。今まで幾度となく繰り返してきたことではないか。

 たったそれだけのことで、ミレイシアはいつだって笑ってくれる。

 私もだよって、安心したように微笑み返してくれるから。


 だからいつも当たり前にそうしているように、アレクセイは送った。

 最愛の妻に、愛の言葉を。

 そうしたらきっとすぐにも、彼女も同じように送り返してくれるはずで。


 だが――。


「嫌いよ……」


 思いもよらず、それがミレイシアの答えだった。

 涙に濡れたエメラルド色の瞳を拭い、キッとこちらを睨むようにしてから彼女は言い放つ。その決定的とも言える拒絶の言葉を。


「あなたの事なんて、大っ嫌いッ!!!」


 ――えっ?


 ついに限界を迎えたのが、それと同時のことだ。

 どうにかこうにかこらえていた手指がそのとき、ズルりと外れてしまって。


 腕を伸ばし、遠ざかっていくミレイシアを見上げながら。

 間延びした数秒間、アレクセイは茫然自失と考えていた。


 いったい今、彼女は誰に向かってキライと言ったのか。

 アナタとは、いったい誰のことを指してのことだったのかと。


 少なくとも自分でないことだけは確かだ。

 だってミレイシアが自分にそんなことを言うわけがないから。

 自分たちは永遠の愛を誓い合った夫婦だから。

 そんなこと、あり得なくて。


 でもだったら、誰に……?

 あの魔女か? リクニか? ケインか? アリシアか? ゼノンか?


 教えてくれ、ミレイシア。頼む。

 だって私はおまえを、こんなにも……。


「愛して――」


 涙混じりに上擦ったその言葉が、アレクセイ・ウィリアムの最後となった。

 グシャリと潰れた血肉が地上にひしゃげ、飛び散る水音とともに。

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