9-37.「浄化」
自分の持つ『浄化』の魔力ならたぶん、あの魔人の不死身にも近い回復力を弱体化できるのではないか。それが先刻、目覚めてからすぐにルーテシアがミレイシアに伝えたことだった。
「どういうこと……!? 弱体化って」
そこで初めてルーテシアは打ち明ける。あのとき何があったのか。
どうして自分が彼に追われることになったのか、その直前に目の当たりとした怪奇現象を。
助けようとしたのだ。
気付いたら1人で、周りには誰もいなくて、いくら探しても見つからなくて。広い城域内を1人、彷徨い歩いていたところ、とてつもなく大きな倒壊音を聞きつけたのがそのときになる。
それで様子を確かめに行って、見つけたのが倒れているあの男だった。
彼は苦しんでいた。
ひどいケガをして、うなされて、立ち上がることもできなそうにしていて。
助けなきゃ。
そう思い立ち、ルーテシアはすぐさま杖を手に駆け寄る。
ところがそこで見るも悍ましく、身の毛もよだつような現象を目の当たりとすることになるのだ。
ルーテシアが駆け寄った時点ですでに、シュルシュルとただれた皮膚やちぎれた筋線維の再生は始まっていて、目を見張ったこともそうだが。
「うぅぬ、ぐ……おおおおお……ッ!!?」
いきなり彼の上半身がバチンと背中から裂けたかと思えば、次の瞬間わらわらと繊維状のなにかがブワリと広がるように飛び出してきたのである。
異変はそれだけに留まらず、たちまち体のあちこちで肌がブクブクと泡立ったかと思えば、脈打ちひしめき合いながら肉が、人体が際限なく膨らんでいって。
この世のものとも思えない光景にルーテシアは顔を蒼白とし、言葉もなく後ずさるばかりだった。得体の知れない恐怖に駆られ、逃げようと踵を返す。返しかける。
だがそのとき、彼は言うのだ。
ミレイシア、と。
途切れ途切れではあったが、知っている名をそうはっきりと口にして。
もしかしてミレイシアの知り合いなのだろうか。
問いかけてはみるが、やはりルーテシアの声が男に届いている様子はない。
どうしたら……。
だがそのとき、ルーテシアは捉えたのである。
蠢き脈動する肉塊のうちに、点穴とも呼ぶべき魔力の淀み、その一点を。
経験則からルーテシアは知っている。
アリシアの変幻術やリィゼルの術式ロックを突破したときもそうだが。
それが見えたとき、『浄化』の魔力を纏わせた杖でえいやとそこを突けば、大抵のことは何とかなることを。
今回ももしかしたらと、そう思った。
迷っている時間はなさそうで、ギュッと握りしめた杖を手にルーテシアは意を決する。
『浄化』の魔力をチャージし、狙いを定めてパコン。振るった杖先が、その淀みの1点を確かに捉えて。
結果として、それで男の体にきたしていた変調は収まったのだ。
何もかも元通りというわけにはいかず、体のあちこちバランスの悪い感じにはなってしまったけれど。あのまま放っておくよりはずっと良い結果となったはずで。
ひとまず落ち着いて良かったと、安堵の息を付くルーテシアだった。
でも思いもよらない事態に見舞われたのが、その直後のことになる。
そのときのルーテシアはと言えば、少しだけ得意げになっていたりもしたのだ。通りすがりのこととはいえ人助けをしてしまって、エッヘンという感じだった。
いやいやそんな礼には及びませんよとか、一度はやってみたかったシチュエーションが到来するのではとちょっとワクワクしていたりもして。
一方で男が起きたときに備え、いろいろとメモも用意していた。
自分の名前とか私喋れませんとかを先に用意しておいたり、こんな人たち見なかったかと尋ねるためにアリシアやリクニの簡易似顔絵をスケッチしておいたり。
あとは……?
うーんとペンを手に、頭を悩ませていたときである。
呻き声とともに、男が意識を取り戻したのは。
でもいきなり立ち上がろうとするものだから、慌てて止めにかかる。
まだ動いちゃダメだよと、届かない声で必死にそう呼びかけながら手を添えて。
ところが――。
「触、るな……」
その低い声音から、男が怒っているのはすぐに分かった。思っていた展開とは全然違って、まさかそんな怖い形相で睨みつけられるとはちっとも予期していなくて。
「おまえ、何をした……?」
刹那、思考の停滞を挟んでから、ルーテシアは急いでメモにペンを走らせる。とにかく何があったか説明しようと多すぎる情報量をどうにかまとめ、必死にカキカキして。
でもその猶予も、男は満足にくれなかった。
「何をしたのかと、聞いている……」
ゆらりと幽鬼のように立ち上がってから睥睨し、男はさらに質問を重ねてきた。その様相にとてもまずいものを感じて、切羽詰まり。
ちょっと待って……!
あの私、しゃべれなくて……!
さっき用意しておいたメモを示しながら一生懸命に口をパクパク。
まずそのことから伝えようとするルーテシアだった。
「いったい彼女に、何を……?」
でもいよいよ話すら噛みあわなくなってくるのだ。
彼女とはいったい誰のことを言っているのか。
周りを見回しても他には誰もいなくて、戸惑いを浮かべるしかなくなって。
「おまえが、やったのか……?」
ついには怒りに震えた声でそう糾弾され、どうしていいかも分からなくなった。
メモの手も完全に止まり、そして――。
「おまえがやったのかぁあああーッ!!?」
怒号とともに足蹴りが飛んできたのが、次の瞬間だ。
渾身の力で振るわれたそれは、ルーテシアの小さな体をいともたやすく壁の反対側まで弾き飛ばし、激突させる。
カンカンと持っていたペンやメモも、そのとき失くしてしまって。
「おまえが……! おまえが彼女を……!? よくもぉおおおお……ッ!」
しかしまだ体を使い慣れていないかのように、バランスを崩した男がそのとき倒れてくれたのが幸いだった。
その隙にルーテシアはヨロヨロと、強くぶつけてしまった側頭を押さえながら立ち上がる。
早く逃げなければと。
大きいおかげですぐに見つかってくれた杖だけは回収してから、壁に体を引きずるように逃げ出して。
「赦、さんぞ……。おまえだけは……。おまえだけは絶対にぃいいい!!!」
身に覚えのない憎悪と怨嗟に満ちた絶叫を背に。
ルーテシアはそこから男の執拗な追跡を受けることになるのだった。
そしてまさかその先で、ミレイシアと遭遇してしまい――。
◆
いったい、どうして。
自分のしたことの何がそこまで男の逆鱗に触れてしまったのか。
怒りを買い、追われることとなったのか、ルーテシアには分からない。
けれど今となっては1つだけ確かなことがある。
それはこの『浄化』の魔力には、男の治癒力を抑制する効果があるということだ。
だってそうだろう。
彼が本当の異形となりかけていた、あの見るも悍ましい現象はなんだったのか。その答えは、今となってはおよそ察しも付こうものだから。
おそらくあれは自己修復能力の暴走とも呼ぶべき怪異だったのだろう。
負った損傷が大きすぎて、どこまでが元の体で、どこまでがそうでないのか、体が本来の枠組みを見失い、制御できなくなってしまったのではないか。
その結果、細胞が際限なく肥大し、増長してしまったものと推測する。土壇場とはいえ、それを食い止められたことがまず根拠の1つとなるはずだ。
それに加え、ルーテシアは覚えている。
見たままの記憶としてはっきり思い出せる。
あのとき――。
『イヤだぁああああああーーーーッ!!!』
とにかく必死だったルーテシアが発した『浄化』の極光、それを浴びた男の体はドロドロボタボタと溶解し、体のあちこちで崩れかけていたことを。
回復だって全然間に合っていなかった。
ルーテシアが放った風の魔法を受けても、それが治らない。いや正確には、浄化の光を浴びるまでよりも治りがずっと遅くて。
そうと分かるなり途端に男は動揺を露わとし、ひどく怯え始めたのである。
『まさか、そんなはずは……!? だって、ミレッ……!?』
直後に背後を振り返った彼が、いったいそこに何を見たのかまでは定かでないが。
何もないところをジッと凝視していたのも束の間、うぎゃああと悲鳴をあげて一目散、手足を投げ出すように逃げ出して。
それゆえに今度、ルーテシアが逆に男を追っていたのだ。
この『浄化』の魔力が、あの化け物じみた回復力を著しく低下させることが、それではっきりと分かったから。
と言ってもほとんど無意識化に近い、極限の集中状態で自らが行った思考を辿り直しての推察ではあるが。
ともかくそれら根拠を手短に話したうえで、ルーテシアはミレイシアに伝える。お願いミレイシアと前置いたうえで、自分をあと少しだけ回復させてほしいと。もう一度、リクニのところに行くために。
「ダメだよ、そんなの……絶対ダメ! 行かせられない!」
ミレイシアはすぐにも首を横振りして、失敗したらどうするのとか確証だってないんでしょとか言ったけれど。
確証ならあると思うのだ。
だってそうでなければ説明が付かない。
なぜあのとき、男は自分から逃げたのか。
そのあとミレイシアが無茶をして、自分が致命的なスキを見せるまで徹底して姿を現さなかったのか。
答えは1つしかない。
アイツが自分のことを恐れているからではないか。
――そうでしょ?
ルーテシアの問いかけに、ミレイシアは瞳を惑わせる。
「だとしても……やっぱりおかしいよ。なんでルゥちゃんの魔法が……。だって『浄化』って、水とか空気をキレイにしたりとか、そういう魔法でしょ? ゼノンみたく魔力そのものを無効化するわけじゃないのに。それがどうして……?」
確かに、その答えを見つけるのには少し時間がかかった。
ミレイシアの言う通り、自分の『浄化』の力は細やかなもので、あまり大がかりなことはできないのである。
トイレ掃除とか日常でちょっぴりだけ役立つ場面はあるけれど、攻撃能力は皆無。あとは魔法を解いたり、見破ったりできてたまにエッヘンできるくらいが関の山と、実にイマイチで掴みどころのない微妙なスペックを誇っている。
この場面で活きる性能ではないはずなのだが……。
だがその答えも、間もなく見つかった。
ルーテシアが持つ『浄化』の魔力。
その前提がもし本来そのもののあるべき姿、もっとも澄んだ状態に回帰させることと、そう定義付けるのであれば。
可能性は1つで、あのときブクブクなってた理由とも辻褄が合う。
つまり――。
「あの回復力は、あの人が本来持ってる魔力じゃないってこと……?」
コクリ。
考察の末、ミレイシアが行きついた答えに首肯するルーテシアだった。きっとそういうことなのだと。
あの魔力が誰のものであるかは、この際置いておくにしても……。
とにかくあの男にとっては異物なのだ。
体内を巡る『毒』のようなもの。
だから『浄化』の魔力がこれ以上なく効くのだろう。天敵となる。
あの厄介な回復力を無力化、ないしは弱体化できる自分が。自分だけが、あの男にとっての。
そうと分かったら……。
急がないと。早く行かなくちゃ。
時間がない。
カツンと突いた杖を頼りにグッと力を込め、ルーテシアは立ち上がろうとする。何とかなるかと思いきやすぐにふらついて、ミレイシアに支えられてしまったけれど。
そんな体でどうするのやっぱり無茶だよと制されても、頷けない。
頷けるわけがない。
だってミレイシアもさっき、十分すぎるくらいの無茶をしたではないか。
リクニだって今まさに無茶をしているところだ。
到底、納得なんかできない。
何より、イヤなのだ。
このままリクニが居なくなるのなんて。
『そろそろ帰ろうよ、ルゥ』
自分の我がままで、さっきは随分と手を焼かせてしまったみたいだから。さっさとあのよく分からないのをやっつけて、謝らなければならない。
そのためにもルーテシアは再度、ミレイシアに言った。
お願いした。
自力で立てるようにさえなれば、あとのことは自分で何とかするからと。さっきミレイシアが飛び降りてきた、あのとても危なっかしいところを遠目に見上げて。
今度は、私が――。
「リクニを助けるんだ」




