2-7.「少し早めのディナーだよ」
ケイン・ガストロノアには美学がある。
それは自らを『美食家』と捉えるほどに強く、深い『食』への関心から誘引されるものだ。
食材にこだわるのはもちろんのこと。
品質や調理法、盛り付け、味のバランス、満腹感や栄養価だけでなく、食事という体験そのものを重要視しているからこそ生まれる自覚なのだが。
その最たる所以は別にあった。
すなわち『食』に対する純粋なまでの興味と、探求心である。
見解の相違とでも言えばいいのか、美食家にも実に様々なタイプがいるのだ。
それも自分の口に合わなければたちまち食材にケチをつけたり、作り手をけなすような下賤の輩のなんと多いことか。それはもう、嘆きたくなるほどに。
自分から言わせればそんなのは下の下、三流もいいところだ。
本当に第一線で『食』の美の語り部となりたいのであれば、テーブルに出されたものをただ食すばかりではいけない。
自ら育み、仕立てるのだ。
なればこそ真の美食家を名乗るに相応しい品格と風情が備わり、さらなる高みに昇り詰めることができるのだから。
それがケインの根底に根差す、『美食感』とも呼ぶべき思想だった。
しかし、だからこそ腹立たしいのである。
貴重な探求の機会を、奪われてしまった。
そのことが、今になってどうしようもなく。
「ふんふん、思った通りだ。よく伸びて、響く。なかなか悪くない悲鳴だね」
「おい、何のつもりだテメェ!?」
耳をそばだてながらスンスンと鼻を鳴らし、まずは『香り』から堪能していたところ。
声を荒らげたのは邪魔立てしてきた張本人だった。
だからせめてもの心憎さを込めて、ケインは冷ややかに告げる。
「なにって、見れば分かるだろう? 食事だよ」
「食事だと……!?」
ケイン・ガストロノアには美学がある。
ケインにとっての食事とは、神事にも等しい神聖な行為だ。
だがその美学に反するとしても、これは致し方のない選択だった。
「不躾なことは承知しているとも。客人をもてなしている最中に、自分だけバクバクご飯を食べ始めるんだ。そりゃあなんだこいつってなるよね。そこは申し訳ないと思っているよ。でもそれを言うなら、こっちにだって言い分がある。だってこれは君が招いたことじゃないか、ゼノン君」
そのときまたいっそう大きな悲鳴が響いた。
2本目、3本目と捕らわれの人質が、続けざまにまたその指を折られたのだ。
「いいかいっ!?」
そして同時に、ついに抑えきれなくなったかのようにケインが初めて怒号を発する。
「僕は今夜のディナーを心待ちにしていたんだよ! なんでか分かるかな、いや分からないだろうね! それほどまでにあれが秀逸な食材だったからさ! 確かにまだ青いことは否めないが、その伸びしろも含めればまたとない研究材料だった! あれとの対話を経て、僕はまた更なる高みに至れる! そのはずだったんだ!」
指を付きつけるようにして、感情を爆発させる。
――そう。
本当であれば今夜からじっくり、時間をかけて調理していくはずだった。
あの魔女、『ヨルズ』にやったのと同じように。
彼女も最初は、実にイマイチだったのだ。
まるで骨ばかりの魚料理、皮ばかりの肉料理みたいに。
食べずらくて、ボソボソして。
量こそあるので腹は膨れるが、どこか満ち足りない。
求める水準に達するものとは到底いえなかった。
だがその味わいも、日を追うごとに少しずつ変化していく。
せいぜいお通し程度だったものがオードブルに、だんだんスープに、そしてメインディッシュに。
香りや旨味が少しずつ、引き上げられていくのだ。
それは一重に、ケインの美食への情愛が成せる技だった。
殴りつけて、鞭で払って、爪を剥がして、切りつけて。
炙って、首を絞めて、吊るし上げて、溺れさせて。
あらゆる手段をもって『ヨルズ』をいたぶりつけた。
それこそ自分の姿を見ただけで、思わず彼女が『香り』を引き立たせてしまうほどに。徹底的に恐怖心というものを植え付けてやった。
結果として、ヨルズは見事に成った。
ケインの求めていた味の深みに、ついに達したのだ。
だがそれも、ある時点から打ち止めとなる。
いくら痛めつけても、味が上達しない。
それどころか、落ちていくのだ。
同じような現象は過去にもあり、それが再現されていた。
ケインは考察する。
やはり恐怖を与えて旨味を引き上げるにも、限界があるのだと。
その頃にはもうヨルズは、何も感じなくなっていた。
心が麻痺してしまっていた。
「だから彼女への仕込みは、しばらく断念することにしたんだ。やはり魔女というだけあって体は頑丈だが、心が壊れてしまっては元も子もないからね。その間はそこにいる彼らで凌ぐことにしたよ。ずっと思ってたんだ。食材がもっとたくさんあれば、代わりばんこにできる。そうしたら彼女も、きっとまた旨味を引き立ててくれるんじゃないかって。この際、魔女じゃなくてもいい。できれば若くて、生きの良い女の子がほしいってずっと思ってた。やっぱり女の子の魔力のほうが甘くて柔らかいからね。念願叶って、それが今朝やっと手に入ったところだったんだよ。それなのにぃ……」
打って変わってメソメソ、悔しさを滲ませながらケインは怒りを煮えたぎらせる。
「その貴重な機会をっ! 貴様が奪い去ったんだ、ゼノオオンッ!!!」
最初こそゼノンの訪問を歓迎した。そのように振る舞った。
だがやはり、抑えきれない。失われた機会はあまりに重大で、甚大で。
込みあげる怒りのままにケインは声を張り上げる。
一方で魔女狩りへの拷問じみた暴虐も続いていた。
今やパニックとなり、イヤだやめてと恐慌状態になりながら叫んでいる。
だが身動きの取れない彼女に、成す術はなかった。
「本当にやってくれたよ、あまりに大きすぎる損失だ。他の魔女狩りたちがもうじき此処にやってくる以上、もう取り戻すこともできない。だからそのまえに、今日は少し早めの夜食だ。このタイミングで目を覚ましてくれたことには感謝しかないよ」
本当は彼女のこともゆっくり、丹精を込めて仕込んでいきたかった。
しかしもう、そんな猶予は残されていない。
検証できる時間がないのだ。
だったらいっそのこと、『消費』してしまおう。
失われた機会を最大限に活かすため、残された時間で精一杯の愛情を注ぎ込む。
お預けにされるくらいなら今のうちに、頬張ってでも口のなかにかきこんでやる。
それがせめてもの、美食家ケインにできる食材への弔いだった。
たとえそれが、自身の美学に反する行いだとしても――。
「さて、難しいのは力加減だな。やりすぎれば意識が飛んでしまうからね。大胆すぎてはいけないが、かといって慎重すぎても旨味を引き出せない。絶妙な匙加減が求められる。まったく我ながら嫌気が差すよ、これじゃあまるで積み木崩しじゃあないか。品位の欠片もない力仕事だが、やむを得まい!」
くるんと杖を振れば、ギュルルン。
張り付け状態にある彼女に、更なる嗜虐の泥濘が伸びて。
瞬間、じわりと滲み出した旨味に狂人はジュルリと垂涎する。
「――さぁ、存分に引き立たせてくれたまえぇっ!」