9-33.「幻影の彼女」
魔人、アレクセイ・ウィリアム。
今の彼に、正常な自我や自意識と呼べるものはおよそ存在していない。
きっかけとなったのは少しまえ、彼が命の危機に瀕したとき。
とっさに服用したお手製の超回復薬(そう名付けた)にあるのだが。
製造工程も不明なそれは結果として、取り込んだ彼の体内にミレイシアの『治癒』の魔力を残留させ、暴走させる結果をもたらしてしまった。
人の身にはあまりに強力すぎ、毒にしかならなかった魔力はやがて、彼の精神や人格そのものをも蝕んでいく。それこそグランソニア城に収容されたとき、まだ彼に理性と呼べるものは残っていたのだ。ひたすらに無実を訴えていた。
だが支離滅裂だった主張の頻度や口数は日に日に少なくなり、徐々に無気力に。かと思えば独房で一人、薄笑みを浮かべ、ブツブツと片言のように何かを呟くようになって。
実はこのとき、アレクセイは今生でもっとも満ち足りた日々を送っていた。
自分が無実で潔白だとか、冤罪だとか。
それすらも、もはやどうでもいい。
だって、やっと彼女に会えたから。
最初は微かな声だけだったのが、だんだん朧げながら輪郭を得て、今はこんなにもはっきりと見えるし、触れ合えるから。
彼女は言う。
自分さえいてくれれば、もう他にはなにも要らない。
一生このままでも幸せだと、ヒシと抱き着いてくる。
だからアレクセイも応える。
「私もだ、ミレイシア……。もう決しておまえを……何人たりとも……」
フヘ、フヒリ。
薄暗い独房のなかでただ一人、不気味な笑みを浮かべながら。
「ああ、そうだとも……。何も……なんて要らない……。私たちは、永遠に……」
アレクセイは日々、そこに居ない彼女の幻影と『愛』を分かち合っていた。
◆
そんな当人の認識はともかくとして。
結局、解毒の術も見つからないままアレクセイの精神崩壊は進んでいく。
近ごろではすっかり心も「無」となり、心神喪失としか言いようのない生きる屍状態に。姿こそ変わらずそこにあれど、「ミレイシア」と言葉を交わす頻度も減っていたのだが。
ここにきてアレクセイの情動がかつてないほど昂ぶりを見せているのは、彼に意識の覚醒を促す邂逅や出来事が、この短時間でいくつも重なったからになる。
まずはアリシア・アリステリアとの期せぬ再会がそれだ。
なにせ奴にはまだ聞きたいことが山ほど残っている。
何を聞きたかったのかは忘れてしまったけれど、それでも聞かなければならないのだ。
だから『水』の魔力で何かをしようとして、でも久しぶりだからか上手く纏められなくて、ビチャビチャとまき散らしてしまって。
でもその瞬間、これ以上なくあの魔女は表情を歪ませ、青ざめさせたから。やっぱり自分のやろうとしていたことは正しかったのだと、そのときアレクセイは確信を得た。
だってそうだろう。
そんなのは罪人のする顔付きではないか。
何か悪事を働いたと身に覚えがあるから、そんなにも表情を強張らせるのだ。
そんなにもビクついて、抑えも効かないほどにガタガタと震え出して。
「フヒ……」
だったら暴いてやる。
白日のもとに晒してやる。薄汚い魔女め。
おまえの犯した罪を、咎を。今度こそ。
だがそこに邪魔が入って、挙句には宿敵ケイン・ガストロノアまで現れたではないか。彼もまた、赦されない存在だった。
いったいどうしてだったかは、ちゃんと思い出せないけれど。
そうであることがこの魂にしかと刻まれていたから。
とはいえ、今ばかりは見逃してやろうと思ったのだ。
なにせ今はほかの何より、この罪人の咎を暴く方が先だから。
それなのに奴と来たら、いきなりこちらの獲物に躍りかかって。
挙句には「ミレイシアを食った」などと宣うではないか。
バカを言え。
ミレイシアは此処に居る。
自分と一緒に、片時も離れず。
もう何日もだ。
だが気付いたとき彼女はいなかった。
ついさっきまで、そこに。自分と一緒にいたはずなのに。
そんなわけない。あり得ない。
だって約束したのだ。
両手の指を結んで、もう二度と離れない。
絶対に離さないと。
そのときの温もりが、感触が。
この手にはまだ、しかと残っているというのに。
「どこだッ、どこにいるッ!? ミレイシアぁああーッ!?」
訳が分からないまま、アレクセイは狂乱した。
錯乱していた。
でもいくら探しても叫んでも、彼女は見つからなくて。
奪われ、取り返そうとした罪人にもついぞ、この手は届いてくれなくて。
何も成し得ないまま。
「どこ、だ……。ミレ、シア……」
あまりに甚大なダメージを負い、動けずにいた。
原型を失った腕を伸ばし、それでも手探りで彼女を探し求めようとする。
だけどやっぱり、何も心配なんていらなかったのだ。
彼女はそこにいた。
いてくれた。
伸ばしたアレクセイの手をそっと取って、少しずつでも治癒の魔法でこの壊れた体を癒やしてくれて。なんだそこにいたのかと、心から安心する。ほっと安堵の息をつく。
『あまり心配をさせないでくれ、ミレイシア……』
『ごめんなさい……。でも大丈夫です。ずっと一緒ですよ、アレクさん』
アレクセイの手を取りながら、彼女はいつものようにニコニコ。
花のように微笑んでいた。
ところがその直後、またも予期せぬ事態に見舞われることになる。
あらぬ侵略者が現れたのだ。
ただ至福の時間を過ごしていただけの自分たちのもとに、外見こそ無垢ではあるが恐るべき魔性を秘めた小さな影が。その控え目な足音とともに、タタタと近づいてきて。
そう、それこそが奴だった。
リリーラ・グランソニアの一撃を受け、レーザーがごとき光の速度で殴り飛ばされてきたアレクセイ。その凄絶なまでの爆音と、突き抜けた石壁の破砕音を聞きつけてのことにはなるが。
身の丈より頭1つ分大きな杖を手にした赤毛の少女、ルーテシア・レイスが恐る恐ると。
石柱の影からチラリと、その不安げな顔を覗かせて。
◆
そしてその魔女は罪を犯すのだ。
いったいこちらが何をしたというのか。
どこまでも一方的に、理不尽に蹂躙し、奪い去ろうとしてきて。
だから然るべき報いを受けさせてやろうと思った。
だってこのままでは、ミレイシアがまた不安になってしまうから。
あれは決して、野放しにしてはならない脅威だと断定し、追いかけて。
ずっと狙っていたのである、この機を。
あの危険極まる魔女が、決定的なスキを見せるその瞬間を。
さっきはまさかミレイシアの偽物が現れるという不測の事態に、思わずそちらの排除を優先してしまったが。もう間違わない。
バリン。
建物を囲っていた幾重もの方陣を突き破り、飛び掛かった勢いそのままに。
アレクセイが狙うのはただ一人、ワタワタと隙だらけもいいところの赤毛の魔女である。
背後を取った、完全なる死角からの襲撃だ。
今さら気付いたところで、もう遅い。
撃滅を確信してニヤリ。
その頭蓋を粉砕すべく、固めた拳をブンと振り下ろし。
「ルゥちゃんを守ってッ!!!」
だが直前、ミレイシアの声掛けもあってリクニは寸前での対応が間に合う。ルーテシアを包囲するはずだった方陣、その光を鋭く延長して迎撃に転用。ありったけの力でアレクセイの体を穿ち、撃ち落とした。
そうして間一髪、ルーテシアを守りきることができて――。
だがこのときリクニも、そしてミレイシアもまだ知らなかったのだ。
アレクセイ・ウィリアムがその身に宿す、人並外れた修復力を。
故に反応が、致命的なまでに遅れてしまう。
まさかすぐに立ち上がれるはずもない、肩や脇腹の傷がビチリと一瞬で塞がるとは思わなかった2人の目前で。
完全には体勢を崩し切らないまま、クヒリ。
その拳が今度こそ、無造作に振り切られて。
――報いを受けろ、邪なる魔女め。
「断、罪……ッ!!!」
ゴッと鈍い音とともに、ルーテシアの小さな体は横合いに殴り飛ばされるのだった。