9-32.「不穏な予覚」
アリシアとミレイシア。
世界に光を灯してくれた2つの出会いは、そのどちらもかけがえのないものとなって深く、ルーテシアの胸に刻まれる。
それだけにさっき『ヘンゼル』の中でまたアリシアに会えたときは、心からホッとしたものだ。すぐさま抱き着いて、とにかく無事で良かったと埋めた顔をスリスリ。半月近くもお預けにされた分、アリシアの懐かしい匂いをたっぷりと吸い込んで堪能する。
ミレイシアのときは本当に何もできなくて、ただ諦めるしかなかった。
でもだからこそアリシアまでそうはさせない、させるものかとルーテシアなりにこの作戦に秘めていた強い想いがあって。
念願叶ってようやく果たせた再会だったからこそ、胸に迫るものがあったのだ。
「ありがとうね、ルゥちゃん」
そう言ってもらえて、本当に良かったとその小さな胸に温かな情感が満ち満ちて。
結果として、聞いていたよりは危ういミッションともなってしまったけれど。帰ったらまずは、最後まで心配症だったリクニにエッヘンと胸ポンしてやるつもりだった。
ほら、大丈夫だったでしょ。
ちゃんとやれたよって。
なかなか忙しかったみたいで「ごめんルゥ、あとでー!」と駆けつけて早々どこかに行ってしまったけれど。べつにそんなのは今に始まったことではないので、まったくもうとため息1つで大目に見てあげることにする。
その分、アリシアとたくさんお喋りしようと気を取り直して――。
でもその直後のことだ。
よく分からないことが起きて、1人きりになってしまったのは。
此処はいったいどこなのか。
ほかの皆はどこへ行ってしまったのか。
誰かに届くことはほとんど期待できない声をそれでも張り上げ、ルーテシアは城のあちこちを駆け回る。でも誰もいない。見つからない。
挙句には訳も分からないまま、襲いくる見知らぬ男から追われることになって。
負傷した半身を庇うように走りながら息を切らし、ルーテシアは何度も背後を振り返っていた。
なんであの人は追いかけてくるのか。
自分がいったい何をしたというのか。
自分はただ、助けようとしただけだ。
それなのに、なんで……!?
分からない。
分からないまま、走り続ける。
逃げ惑う。
アリシア、リィゼル、ウィンリィ、テグシー、そしてリクニ。
ただ1人を除いては届かないと分かっている声をそれでも懸命に張り上げ、助けを求めながら。
でも幸い、男が追いついてきそうな気配はなかったのだ。
元より気味が悪いほどヨタヨタとふらついていた男の追跡だが、疲れたのか。
ひどく苦しそうな顔つきとなって、壁に手を付き足を止めて。
このままなら逃げ切れそうと、一時はそう希望も見い出しかけたのだが。
まったく予期していなかった事態に見舞われたのが、その直後。杖を握りしめるようにして、小さな足を懸命にひた走らせていたルーテシアだが、その行く手になんと。
「――ルゥちゃん!?」
なぜ此処にいるのか。
現れたのがミレイシアだったのだから。
そのひどく慌てた様相から、彼女が自分の声を聞いて駆けつけてきてくれたことは明らかだったが。ルーテシアは知っている。ミレイシアは戦えないことを。
このままでは危険に巻き込むだけだ。
だから咄嗟に、ルーテシアは進路を変えた。
来ちゃだめ!
そう伝えてから、ミレイシアがいるのとは別の通路に逃げ込んで。
ところが男は今度、打って変わってミレイシアを狙い始めたのである。
ルーテシアには目もくれずいきなり彼女に飛び掛かって、ニセモノ(・・・・)とかよく分からないことを言いながら首を絞めて。
「ルゥちゃん……。逃げ、て……!」
できるわけがない。
やめて、ミレイシアを離して。
ルーテシアは引き返してから、必死になって攻撃した。
男の注意をこちらに引き付けようとした。
でも効かない。
いや、すぐに回復してしまう。
その間にもギリギリと、ミレイシアの首が締まっていく。
誰か助けて。誰か。
自分の力ではどうにもならないことが分かって、ルーテシアは泣きながら叫んだ。
周りに助けを求めた。
でも誰も来ない。来るはずがない。
だってこの声は、ほとんど誰にも届かないから。
それなのにミレイシアは、それを聞きつけてしまって。
助けに来てくれたばっかりに……。
――自分のせいで。
虚ろな眼をした男が、愉しそうにミレイシアの首を絞めあげていく。
ミレイシアが苦しそうにしながら、それでも自分に逃げてと訴え続ける。
懸命に、声を振り絞る。
なんで……?
いや、だ……。ミレイシア……。
頭の中がそれだけでいっぱいになって、訳が分からなくなって。
「イヤだぁああああああーーーーッ!!!」
泣き叫ぶルーテシアを起点としてそのとき、眩い『浄化』の白光が辺り一帯を包み込むのだった。
◆
その後の顛末を知るのは、居合わせたミレイシアただ1人となる。
ルーテシアが発した極光をその身に浴びるなり、尋常ならざる様相で逃げだしていった大男。
顔を覆うようにして苦鳴をあげて、よろめき。
『まさか、そんなはずは……!? だって、ミレッ……!?』
そんな訳の分からないことを取り乱した様子で呟いてから、ひどく怯えた顔つきとなって踵を返す。何かに恐れを成すように、引きつった絶叫をあげながら逃げ出していったわけだが。それで窮地を脱したと、事態がそれだけに留まらないことにはすぐに気づいた。
返事がないのだ。
そのとき手放されるまま床に落とされ、絞められた喉元を押さえながらケホケホと、何が起こったのかも分からずにいたミレイシア。
咳き込みながらもどうにか顔を上げ、そこにちょこんと立っている小さな影を見つけたときはホッと安堵の息こそ漏れたが。
「ルゥちゃん……! 大丈夫……!?」
その無事を確かめようと何度呼びかけても、彼女は何も答えてくれない。
ただそこに佇み、じっと男の逃げ去った方を見据えるばかりで。
ゆっくりと振り返られた虚ろな瞳が、一度こちらを捉えこそしたが。
「ルゥちゃん……!? 行っちゃダメ、戻って!」
そんな制止の声にも耳を貸さず、彼女もまた行ってしまった。
それで行方を探していたところ、リクニと鉢合わせて――。
そうして現在に至るわけだ。
ある1つの賭けに打って出て、いまミレイシアは塔から身を中空に躍らせている。ルーテシアの気持ちを逆手に取った、踏みにじるにも等しい作戦ではあるが……。
幸いにして思惑通り、ルーテシアの注意は散漫となってくれた。
あとはリクニが陣を完成させてくれれば、無事に彼女を保護することができて。
だが――。
「……っ!?」
ゾクリ。
肌の泡立つような、かつてない予覚に襲われたのがそのときである。
なんだろうか。何か、とても……。
とてもまずいことが起ころうとしている気がするのだ。
近づいてきている。何が……?
その所以を確かめようと咄嗟に顔をあげ、遠方の空にそれを見つけて。
「ま、さか……!? いけない、リクニさんッ!!!」
そう咄嗟に、声を張り上げる。
地上にいる、まだ気付いていない彼に向けて。
「ルゥちゃんを守ってッ!!!」
意味を介せないまま、いったいどういうことかとリクニの思考は停滞に見舞われたが。その直後のことだった。バリンと空から硝子のひび割れるかのような物音を伴い、まったく予期しなかった異物が闖入してきたのは。
「なッ……!?」
まさかそのとき、リクニは夢にも思っていなかった。
ルーテシアが決定的なスキを見せるその瞬間を伺っていた人物が。
その機をずっと遠方から狙っていた正真正銘の外敵が、自分たちのほかにもう一人いただなんて。
「フヒッ……」
飛来してきた勢いそのまま、不気味な笑みを湛えて。
――そう、アレクセイ・ウィリアム。
彼が狙い定めるのはルーテシア、ただ一人だ。
その小さな体めがけて、固めた拳と剛腕を力任せに振りかざす。
自らにとって最も大切なモノを奪い去ろうとした邪なる魔女。
その重すぎる罪の代償を、血と命をもって贖わせんとして――。