8-24.「光狼獣」
――ウィンリィ。
ここにそう名付けられた、一体の精霊獣がいる。
精霊獣とはすなわち、人から魔力の供給を受けることで一定の共存関係を敷くことのできる魔獣の総称だ。
契約を交わすことにより意識レベルでの意思疎通が可能となり、あらゆる側面から主人を補助してくれることで知られる。
だが実用できる者は殆どいない。
高位な種族ほど膨大な魔力を必要とするし、属性や型が一致していることが必須条件であることもそうだが。そもそも精霊獣は、個体数からしてまず少ないのである。
孤高で人前にも滅多に姿を現さないことで知られる光狼獣ともなれば、尚さらだった。半生をかけて捜し歩き、運よく巡り会えたとして、実際に契約までこぎ着ける者が果たしてどれだけいることか。せいぜい数えるほどだろう。
故に光狼獣を従えるとすれば、調教系や精神支配系の魔道具を用いて強制隷属してしまうのが最も確実で現実的な手段とは、定説的にも唱えられていることになる。
実際にその光狼獣もまた、過去にその末路を辿りかけたことがあった。遡ること1年ほどまえのことになるが、運悪くその手合いに見つかってしまったのである。
『ほっほ~っ、そこにいるのはまさか光狼獣ではありませんかな!? なんということか、よもやこんな場所で巡り会えようとは! やはり私はモっている! 神はまだ、私を見放してはおりませんでしたぞぉ~!』
恐らくは精神支配系統の力を有していたのだろう。
外敵はそう声高らかに宣言すると、使役した数多の魔獣を使って襲い掛かってきた。
多勢に無勢ながらも、その大半を蹴散らす。
間一髪、逃れられはしたものの――。
どうやら中に、毒を持っている者がいたらしい。
足に深手も負ってしまい、たちまち動けなくなってしまった。
血が止まらず、やがて意識も遠のいていく。
このまま此処で、静かに終えていくものとばかり思っていたのだ。
だが――。
ロクに動くこともできないまま、何日が過ぎた頃だったか。
声がした。人の声だ。
敵がまた追いついてきたのかと思った。
だが、どうも違うらしい。臭いが異なる。
声は2つあった。
慌てた声と、後から追いついてきた低い声。
すると鼻孔付近に、温かな何かがそっと触れるではないか。
薄目を開けば、そこにいたのは見知らぬ人間の少女だった。
そこで何をしている。やめろ。触るな。
しかし意志に反して、体が言うことを聞かない。動けない。
低く喉を唸らせ、威嚇することで精一杯だった。
だが少女は恐れを成すどころか、にっこりと微笑むのである。
大丈夫だよ、と。
何もしないからね。怖くないからね。
そう言い聞かせながらずっと、優しく毛並みを撫でつけていた。
◆
それからというもの。
自らをアリシアと名乗ったその少女は朝と晩、毎日決まった時間に現れるようになった。
「おはよう、狼さん。今日も朝ごはん持ってきたよ~!」
抱えた川魚や木の実、キノコを懐いっぱいに抱えては、たったとこちらに駆け寄ってくる。ワタワタと、なんとも危なっかしい足取りだ。今にもドテンと転んで、抱えているもの全部を投げ出してしまいそうな予感がすごい。
「わっ!?」
するとまさか思った通りになった。
盛大にドテンとなって、投げ出されたうちのいくつかが手近なところまで転がってくる。
そうやって少女が何を持ってこようと、最初は口に付ける気もなかったのだ。
「大丈夫だよ。確かにこのキノコとかはちょっとヘンな色してるけど、ゼノンさんに聞いたら毒消しの作用があるんだって。だから狼さんにも効くんじゃないかと思って」
なにもそんなのを気にしたのではない。
毒があるかなんて、臭いですぐに嗅ぎ分けられる。
ただプライドが許さなかっただけだ。
与えられたエサをただ貪るだなんて、まるで飼い犬のようではないかと。
すでに傷の手当まで受けてしまっていたからこそ、これ以上は何も受け付けまいと決め込んでいた。次にまたやってきたとき、手の付けられていない前回分を見れば愛想も尽かすだろうと思って。
故に、プイとする。
「狼さん……」
早く行ってしまえ、人間と。
ただ瞼を伏せ、無視してやった。
ところが、どうだ。
次の日も、またその次の日も、少女はやってくる。
「おいイルミナ、もうやめとけよ。いくら持ってったってどうせ食わねぇだろ、そいつ」
「そんな……。でも、どうしてでしょう……? もう血は止まってるみたいだし、傷だって治ってきてるのに。まだどこか悪いのかな……?」
「言ったろうが。光狼獣はそうそう人と慣れ合わねぇ。時間のムダだから、もうほっとけ。帰るぞ」
そうだ、そいつの言う通りだ。
光狼獣は孤高、決して人にへりくだりはしない。
もう諦めろ。
「また明日、来るからね。おやすみなさい、狼さん」
だがその言葉通り、次の日も少女は現れた。
するとここで問題が1つ。
食べ物が溜まっていく一方なのである。
ここで動けなくなってから、もう何日が過ぎただろうか。
ともすれば、いくらやせ我慢を利かせたところで空くものは空いてくる。
あるいは彼らが立ち去ったあとなら、食しても良かった。
だがいったい、彼らは何をしているのか。
もう何日も逗留していて、いつまでも行ってくれる気配がない。
目を閉じれば、視界に入れないことはできた。
だが厄介なことに、匂いだけはどうしても。
ある夜のこと。ぱちり。
目を開け見やった食べ物のヤマは、もうずいぶんと溜まっていた。
ふと思う。
これだけあるなら少しくらい減ったところで、気付かれないのではないか。
光狼獣の気高さを保ったまま、いよいよ鳴りやまなくなってきたこの腹を鎮めることができるのではないかと。
ぼたりと、たちまち涎が零れた。
今にして思えば、なんと迂闊な判断だったことか。
数日ぶりに解禁された食欲が、少しくらいで抑制できるはずもなかったのに。
やってしまった。
「おはよう、狼さん~。今日も朝ごはん……あれっ?」
できれば来ないでほしかった少女は、願い届かず翌朝にも来てしまう。
ともすれば、明らかに目減りした食糧のヤマの異変にはすぐに気づいたことだろう。
「良かった、食べられたんだね! おいしかった? 狼さん」
すんごいご満悦そうにウフフとされてしまった。
そんなこともあってか。
翌日にはこれまたいっそう、多くの食料を抱え込んできた少女である。
それで足元が疎かになって、またも転んでしまったようだが。
「あっごめんね、落としちゃった……! いま集めるか、ら……?」
別にいいとそのままガリリ、食してやった。
とくに深い意味はない。ちょうど小腹が空いてきて、たまたま近くに転がってきたから食べた。
律儀に拾って返してやるのも二度手間にしかならないから、そうしてやっただけのこと。まさか心を開いてやったわけでもないのに。
「食べた……! いま食べたよねっ!?」
なんかすごい嬉しそうにされる。
あーっ!と指差しまで添えて。
そのままやったやった狼さんと駆け寄り、手を伸ばしてきた。
ピタリと、その足はすぐに止まったが。
「……ダメ、かな?」
おずおずとそう尋ねてきたのは、触れていいかという確認だろう。
無論のこと、否である。
こないだも同じことをしようとして、牙をガチンと打ち鳴らしてやったばかりだ。
調子に乗るなと、今回もそうしてやろうと思った。
――だが。
そのとき何故、思いとどまったのかはよく分からない。
ただふいに、確かめたくなってしまったのだ。
『――大丈夫だよ』
あのときに覚えていた、今まで感じたことのない感慨はなんだったのか。
あんな風に人間から毛並みをまさぐられるなんて、ただ不快で気分を害するだけだと思っていたのに。あれでは、まるで――。
決して心を許したわけではない。
だがそれを確かめるために必要だったから、今ばかりはと許容する。
その小さな手が額に届くように仕方なく、頭を垂らしてやって。
「いいのっ!?」
好きにしろと態度で示すとすぐさま、ひっしと鼻先に抱き着かれる。
またワシワシと両手いっぱいに撫でられる。
「良かった、狼さん。元気になったんだね」
存外悪いものでもなかった心地よさにそのまま、光狼獣はいましばらくと浸っていた。