母と先生
リビングダイニングキッチンのカウンターに肘を付いて、母の料理する姿を、ぼやりと眺めていました。ぽこぽこと鳴く鍋の音が好きです。
「ねえ、母よ」
「なに? 穣ちゃん」
「……父はどんな王子様だった?」
「『こころ』の先生みたいな人よ」
「もっと詳しく」
母は米を研ぐ手を止め、私をポヤンと見つめました。
「んー……。今の穣ちゃんよりもう少し大きくて、声を低くした感じかしら」
父は、私が生まれてすぐに亡くなったそうです。母はいつも、「夏目漱石の『こころ』の『先生』のような人」だったといいます。それって、素敵ですか? しかし、母のイメージでは素敵な王子様なんだそうです。だから、自分の先生であったことと、そのことを重ねて母は父を「先生」と呼ぶのです。変な人です。そして、今でも、そう呼ぶのです。
写真があるから、どんな姿だったかはわかります。線が細く、幸薄い私、という感じです。でも、母にとってはどんな男性よりも素敵な王子様だったのです。
「それはそれは、優しくて、まじめで、賢くて、……幸せだったわ」
そういって母は、私の頬に濡れた手を添えます。母は、少女のまま大人になったようなぽわぽわした女性です。笑うと小花が散ります。そして、とても強い人間でもありました。
私が急に父の話を聞きたくなったワケは、きっと。母にとっての父、つまり王子様にあたる存在、そう思える方に私が出会ったからであります。
「……母よ、今日私は王子様を見つけた。いろいろあって友達になりました」
「あらぁぁ、どんな子どんな子?」
母は、私の研究を応援してくれています。むしろ、私の恋愛理論は、少女マンガ愛好家の彼女から全て伝授したといっても過言ではありません。大乗り気で、殿方の衣装を仕入れてきてくれたのです。
「……もっとよく知ることができたら、その時はきっと話しましょう。今は、もっと父の話が聞きたくなりました」
母と父は、女学校で出会ったそうです。若き新任教師だった父は、高校三年生だった母の猛烈なアタックにおされて、彼女の高校卒業後に結婚を承諾したとか、なんとか。
病弱だった父は、たった一年勤めただけで職を辞してしまいました。それからは、母が猛烈に働いて父を支えたのです。ぼんやりしているけれど、情熱的なのです。
一方、教育面では極甘なのです。人の良心を手放しで信じきって、優しさですべてを片付けてしまうのです。広い広い心を持っています。私がのびのびやってこれたのも、彼女のおかげです。ちょっとのびのびしすぎた感はありますけども。ごほん。
「綺麗な真っ黒の瞳も、やわらかい黒髪も、白いお肌も、華奢な骨格も、先生にそっくり。でも、元気いっぱいなところは私に似たのよ?」
父の話をするとき、母はいつも愛しそうで、そして哀しそうでもあります。母はずっと、先生を愛し続けているのです。
ああ! しんみりしてしまった! いかん、いかんぞ。
母との父の話題が一山超えたところで、私は風呂へと向かいます。
さぁ、風呂だ、風呂だ!
寝巻きと下着を持って脱衣所へ向かいます。ちなみに私の寝巻きは和式です。(和式ってなんかトイレみたいですね。)
湯船に使った瞬間、ぞわわわと震えるのが好きです。今は暖かいんだなぁと実感します。
今日は色々あったなぁ。ナツキちゃんの言葉、瞳ちゃんの言葉を思い出して、湯船の中で笑って、ぽこっと泡を出します。
ふと鏡に写った自分の裸体を見てしまいました。我ながら乳の無さには脱帽です。あ、これも母からの遺伝ですね。
食卓で、母は笑顔で言います。
「今日、サマーセーター買ってきちゃった。穣ちゃんのクローゼットに置いておいたわよ。あとで見てね。ケイちゃんのお店に行ってきたの」
ケイちゃんとは従兄の敬之くんで、洋品店で働いています。
「ありがとう。最近羽振りがいいですなぁ」
「それはね〜。ママは穣ちゃんの男の子の姿が好きなのよ~」
母の選ぶ服は、とてもシンプルで趣味がいいのです。質がいいのも、嬉しいことです。多少お坊ちゃん趣味なのはおいてまあいいでしょう。実際、母はお嬢さん育ちだったのですから仕方ありません。
今度、ナツキちゃんと瞳ちゃんを連れて、敬之兄さんのお店に行こうかしら。
滋味に溢れたポトフを食べながら、これからくる日々を楽しみにしてる私に気付きました。
私はたぶん、ナツキちゃんはもちろん、瞳ちゃんのことも好きなんだろうなぁ、ってことです。