クリスマスに…… その3
みぞれを降らす、暗い重い寒空を仰ぎました。鼻がつうんと痛くなります。決して、涙がしみたんじゃありません、冷たい空気を吸ったからです。
ここで泣けないのは、惚れた弱みです。私が泣いてどうするんです。私は今、強くあって、彼を支えるしかないのです。彼は、喋ることすら出来ず、ただ泣いています。道路の真ん中で、彼を抱いて、心をきめた私は静かに語り掛けました。
「僕は、貴方に辛い思いをさせました。解っていたんです。貴方が、『殿宮時雨』を好きだって事が。それでも、いつか僕のことを好きになってくれるんだ、諦めないぞ、って、貴方のことをずッと期待して見ていました。それは、貴方が殿宮時雨を思う権利を邪魔していたのです。僕は、『貴方には好きな人がいるでしょう?』と、一言でも聞いていればよかったんです。僕は、解っていながら何も言わずに、貴方を離さなかったのです。
ずるかったのです。貴方に『殿宮時雨を忘れなきゃいけない』と刷り込んでいたも同然です。
御免なさい。僕は貴方が好きです。こんな辛そうな姿が見たいんじゃありません。
私達は、別れましょう」
夏生ちゃんは、小さく首を振って呻くように言いました。濡れそぼった髪から小さな光る水滴が落ちます。なぜでしょう、今、綺麗に染め上げられたその髪の色は、滑稽にしかうつらないのです。あらゆる重々しさを覆い隠して軽薄たらんとする茶色、生まれ持った黒髪を覆い隠すその色は欺瞞に見えるのです。そんな意図などないとしても、ただ、今だけは。
「甘川……ごめん……」
いいんです。貴方が謝ることじゃありません。私の業です。
ああ、クリスマスの神様、強欲な私は報いを受けたのでしょう? それでは、可哀想なこの少年の切望くらい、叶えてやっては如何です。それくらいは働いてくださいよ。
どれくらい其処でそうしていたでしょうか。みぞれはいつの間にか雪へと変わっています。あの歌みたいですね。車のというクラクションと、眩いヘッドライトで現実感に引き戻されました。「んなとこでいちゃついてんじゃねえぞ、ホモ!」とか、そんな言葉を浴びせられながら、ようやっと歩道へ戻ってきました。夏生ちゃんは小さく私に問いました。
「……時雨さんのこと、……どうして知ってるの」
「一度お会いしたことがあります。葉月さんの写真展の時に」
「ああ。そうか……」
その頃を懐かしむように、夏生ちゃんは微笑みます。悲しい悲しい、回想です。
「素敵な男性です」
「……うん、」
俯いた顔から、また一粒、涙が零れ落ちてきました。それはひどく美しいのです。彼の心は、水晶のように美しくて、石灰のように脆いのです。
携帯電話の時計を、私達はぼんやりと見ました。とっくに終電の時間は過ぎていました。
「ごめん。もう終電ないな。迎えを呼ぶには時間がかかりすぎる。甘川の家までタクシー乗ろう」
「そんな、高いですよ!」
「……いいから」
私達は歩き始めました。身体はすっかり冷え切って、氷のようです。自然に手をつなぎ、そこからささやかな熱が身体を駆け巡ります。
深夜にも走り回るタクシーを一台止めて乗り込みます。走り出してしばらくしたとき、夏生ちゃんはわずかに口を開いて、掠れた声で言いました。その目は私ではなく、呆然と、流れゆく宵浜の雪をとらえていました。
「……ごめん……」
私は謝罪が欲しいなんて思ってないんです。貴方は私にどんな悪いことをしたって言うんです。ちいさなごめんは逆に打ち返してやって、代わりに、聞きたかったことを口にしました。
「……どうして、殿宮さんを諦めるんです」
彼はしばし沈黙していました。青信号と共にタクシーが走り出したところで、苦笑します。
「諦めるも何も、相手にすらなっちゃいなかった。からかわれてただけなんだよ。なのに俺は本気で好きで、片思いだよ、ずッと。時雨さんはずッとどこか遠いところを見てて、俺なんか見てもいない。見てるとしたら、『白鷹家のために働いてる未来の白鷹夏生』だよ」
本当にそうでしょうか。いや、そんなはずはないんです。私の心の中でだけの、反語です。
「駄目だな……甘えてるな、俺。こんな気持ち、誰でも味わうことなのにいつまでも引っ張られて落ち込んでさ」
「仕方ありません。恋の傷は、恋で癒すか、時の流れで癒すか。それだけです」
「……そうだな」
そうじゃないでしょう! そう叫んで肩を揺さぶりたい思いに襲われた瞬間に、タクシーは静かに私の家の前に停まります。
それだけじゃあ、ないでしょう。何か他の大事なことを捨て去るというのも、方法の一つです。――両思いの場合は。ねえ、貴方にとって時雨さん以上に大切なものなど、なにがあると言うのです。いちばんの欺瞞は、そこであると思いませんか。
しかし、私は我に返ります。だって、彼を欺いているのは他でもない、自分自身ですから。私は黙ってタクシーから降りると、閉じた窓越しで夏生ちゃんに言いました。
「千堂は言いました。『終わったら、諦めなきゃならねえの? 相手の都合なんか関係ねえよ』と。夏生ちゃん、貴方が本当に諦めるまえに、知っておかなければならないことがあります。私は君にそれを言えません。ただ、貴方がこのまま終わらないことを祈ります」
きれいごとです。どうして私は、言ってあげないのでしょう。教えてあげないのでしょう。夏生ちゃんは「は?」という顔をして窓を開けました。
「『僕』が好きになった男の子は、そんな腰抜けな筈はありません! 格好良く締めてください!」
私らしい言葉は、それでした。ぽかんとした顔のまま私を窓越しに見ます。この調子じゃ、わかってないでしょう。濡れたアスファルトに筋を残して車は発進しました。
何故言わないか。私もそこまでお人よしじゃありません。だからです。あとは自分のことは自分でどうにかなさい。貴方は私の王子様です。……いいえ。今や従者の私にとって貴方は君主です。戦ってください。
――貴方の姫が、助けられるのを待っているはずです。




