白鷹葉月の語る昔 その2
この頃はまだ夏生も、時雨さんに期待していたはずだ。だから父さんに反抗する力の源があった。
反対に、この頃から僕は、時雨さんは完全にろくでもない奴なんだと思うようにした。だからうまくいきっこないと言い聞かせていた。
朝、食堂に行くと母さんが泣いていた。その脇では父さんが憮然とナイフとフォークをカチャつかせている。この二人は、自分たちそのもののことでめったに喧嘩をしない。だって母さんは父さんに逆らったり意見することなんてないのだから。
だから、外部的な原因だとは思った。
「どうしたんです、母さん」
母さんはやっとのことでハンカチから目を離すと、ひどい顔で僕を見上げた。
「……夏生を、本当に白鷹のお家から出すって、玄冬さんが、」
外部的、とは思ったけど。まさか夏生と父さんの喧嘩が一晩たっても冷めないとは驚き。普段静かなヤツほど頑固で執念深いとは言うけど、まさにこの二人にピッタリな話だ。
「父さん、何もそこまでなさらなくても。夏生も頭に血が上っていただけです」
「夏生は、冷静さを欠いたからといって、あの様な事を口にする男じゃあるまい。本当にそう思っているんだろう、好きにさせる。……白鷹にはお前だけいればいいだろう」
僕は自分の目がじとっと細くなるのを感じた。
「その言いようですと、ただ住処を追うだけじゃ済みそうにないですね?」
「だからそのつもりだと、おまえがあいつに言っておけ。どうせ私と顔を合わせる度胸もない奴だ」
「……どうして厭な役回りばかり僕にくるんですかね」
僕は脱力して席についた。
そして手元のクロスを握りしめる。
恋心にしたって、怒りにしたって、不満にしたって。土壇場で大爆発を起こされるくらいなら、普段から小出しにしてくれていたほうが、周りの迷惑が少なくて済むんだけど。……というのは僕個人の好みなので黙っておく。
しかも今回はかなり長引きそうだし、雲行きが怪しい。親子の縁なんて、手続きで切ることができるほどのものだ。不可能なことじゃない。
まだそこまでになってはいないとしても。
「本当の本当に、夏生を追い出すつもりですか」
「そうだ」
眼球だけ動かして僕を見る父の瞳は、ぞっとするほどのあきらめが込められていた。フォークにはダリの描いたようなベーコンが間抜けに刺さっていて。
僕は、ふつふつと怒りがわいてくるのを感じた。でも早い。まだ。
食欲が湧かず、適当な言い訳を並べて席を立った。
自室に戻ってベッドに飛び込んだが、どうもしっくり来ない。
夏生の部屋へ回ってみると、もぬけの殻だった。
「あンのクソ野郎……」
夏生が夜中に出て行ったとして、行ける所はたかが知れている。あいつにまともな友達なんていない。どうせ、時雨さんの事務所かマンションだ。そう思ったら、黒い嫉妬が湧き上がってきたので、知らんふりして登校した。
僕が家を出る頃には、両親はとっくに出てるので、夏生の不在に気づかなかっただろう。
やっぱり学校にも来ていなかったので、イヤイヤながら時雨さんの事務所に顔を出すことにした。
夏生は案の定そこにいて、入り口に背を向けている。茶色の革張りのソファから黒い頭を覗かせている。座席の上で三角座りをしているらしかった。
「お。お迎えが来たぜ、お坊ちゃま」
一足先に僕に気が付いた時雨さんは、デスクで煙草を吸っていた。夏生はしょぼくれて仕様がない。僕がドアを開いた音で、情けない顔の夏生はふりむいた。
「……葉月。どうしてここがわかったの」
まったく、間抜けな声を出しちゃって。つかつかと近寄ると、拳骨を落としてやった。
「痛い! 何すんだよ」
「うるさいバカ夏生! どうして僕に何も言わないで出てくんだ」
「だって、言ったらおまえ、追いかけてくるだろ」
「言わなくても追いかけるに決まってるだろ。だからバカなんだよ」
「放っておいてくれよ。葉月にはわかんないよ」
「あーあー。わからないね。ちゃんと話してくれないとわからないね!」
時雨さんは、煙草を口に咥えたまま驚いた顔していたが、段々、肩を揺らして大笑いし始めた。この人はもう! 絶対他人事だと思ってる。
「時雨さん! 笑ってる場合じゃないでしょ。どうして送り返さないの」
「いみじくも夏生が言ったろう。おまえがここに迎えに来ると思ってな、入れ違いにならないよう、保護しておいた」
「裏切り者!」夏生が叫んだ。「厭です、家になんて帰るもんか」
「ダーメ。今からまとめてお坊ちゃんらを送り届けます、ってお前らの家に電話しちまったからな」
「厭です!」
「いいかげんにしろよ。時雨さんに迷惑掛かるでしょ」
僕と時雨さん、二人の年長者にたしなめられて、夏生はしゅんとする。
「俺のことはどうでもいい。それより、とにかくもう一回話し合ってみろ。逃げてたって始まらないだろ。それに、人間、夜は余計なことを考え易いもんだ。一日経って、義兄さんも考えが変わったかもしれない」
そんなことはなかったけど。でも、時雨さんの傍に夏生を置くなんて、僕が許さない。恐らく時雨さんもそれを分かってる。だから、帰るように言うんだ。
――訂正しよう。時雨さんは、他人事だと思ってるんじゃない。深刻に、自分の責任と非を認めているんだ。夏生のこころがこれ以上傾かないように、何も気にしてないフリをしてるだけだ。そんな、大人ぶった(実際にオトナだけど)態度が気に食わない。
時雨さんは、僕らを車に放り込むと、家まで送り届けてくれた。
隣に座る夏生の制服や髪は、タバコの匂いが染み付いていた。臭いからもっと離れて、と言って押しやると、夏生は静かに俯いた。
「……気持ち悪」
ほんっっと気持ち悪いよ、時雨さん。バックミラー越しに睨んだのを、彼は知らんふりしやがるのだ。
エントランスで通いの家政婦さんと入れ違いになった。時雨さんは調子良く挨拶すると、彼女は笑って何事か会話した。どうせ家には、夏生のサボりについて学校から電話が入っている。余計な噂話にならないようなフォローでもしているんだろうな。
「じゃ! お前ら、俺は帰るからしっかりしろよ」
背を向けて、僕らに手をヒラヒラ振って彼は去っていった。
「時雨さん!」
まだ何か言い足りない夏生は、彼の名を叫んで走り出そうとした。
そこで僕は、反射的に、彼を追いかけようとする夏生の腕をつかんでしまった。
「あっ……」
僕が我に返るよりも早く、夏生のほうが、はっとして振り返っていた。彼は力を緩めてしゅんと萎れた。僕は、それをピントの外れたところで感じていた。
僕が正面切って見据えていたのは夏生じゃなくて、時雨さんのほうだったのだ。項垂れた夏生ごしに、時雨さんをまともに睨んでいた。
それは、夏生が目にしていなくて、僕が見てしまった時雨さんの姿。先を歩いていたはずの彼が、夏生の声に振り向いた姿。
その時の顔が、ずっと忘れられない。
「なに振り向いているんだよ! 夏生の声がそんなにお前に響くのか!」そう叫んでやりたかった。「さっさと失せろ」と罵ってやりたかった。腹の中が妬みの業火で焼き切れるるかと思った。
彼は、僕が見てしまった表情を一瞬で消すと、すぐに前を向いて去って行った。
あの顔が、夏生の瞳にうつらなくてよかった。もしそれを見ていたら、僕の真摯な腕を振り切ってでも、時雨さんに飛びついていってしまったはずだ。
きっと、ここが僕ら三人をめぐる大きな転換点だった。このとき時雨さんと夏生が手を取り合っていたら、今とは違った世界が広がっていたと思う。想像もつかないけれど。
あの瞬間の時雨さんの表情、「愛しい」意外形容する言葉が見つけられない。それこそ、あらゆる疑いも吹き飛ばすほどの愛に満ちた瞳が、そこにあった。
絶壁を前にした時のような敗北感を味わいながら、僕は決心した。
夏生が時雨さんを好きで、それを通すが為にこの家を出るなら、僕は夏生、お前が大事だから、一緒にこの家を出よう。離してなるものか。あいつに夏生を渡してなるものか。時雨さんは昔言っていた。『自分の信じるものを貫け』、『自分に素直であれ』と。追い出されようと、貫きたいものがある。絶対に『白鷹』は諦めないし、夏生を守りたい気持ちも折らない。二兎を追う力なら、これからつければいい。
その日は使命に燃えた気でいた。でも、要するに、狡猾な悪魔になっただけだ。
奈落に落ちかかった僕が選んだのは、弟の天使の羽を醜く抱きしめて、下へ下へと落とすことだ。
一緒に落ちたんじゃない。夏生のからだを生贄に、僕だけは地上に残った。彼の胸板によじ登って、軽いステップをふんで、自分だけは地面に飛び移ったのだ。僕に折られた天使の羽根では、夏生は飛ぶこともままならない。時雨さんは、落ちていく夏生を助けることが出来なかった。彼自身も既に、僕の作った「威嚇」と言う檻の中で歯を食いしばっていたから。
それでも僕は愛されてしまった。神様は無慈悲だ。こんなサイテーな僕に、愁一を寄越したんだから。
その夜は、修羅場になるまでも無かった。父さんは、踊り場で待ち構えていた僕らを見るなり、鞄から紙を取り出した。マンションの契約書だ。
「そこへ行け、夏生。学校にも近い。不満は無いはずだ」
腹を括って話し合おうと思った僕らに突きつけられたのは、見放しの証拠だった。夏生は醒めた目でそれを確認すると、「ありがとうございます」と言った。僕は、もう怒りを抑えられる自信が無かった。自室へ去り行く父親に声を掛ける。
「待ってください、父さん。これでは狭すぎるでしょう」
「我慢してもらう」
「いいえ。『二人』が住むには狭すぎます、この物件。契約、し直していただけますか」
彼は立ち止まり、慄いた顔で振り向いた。
「葉月。どういう意味だ」
「そのままの意味です。僕も家を出ましょう」
「お前を追い出す理由がない」
「理由? 十二分なものがありますよ」
青ざめた夏生は、僕の言わんとすることに気付いたらしい。
「言うな! 葉月、やめろ!」
なかなか健気に守ろうとしてくれるけど、おまえに守られたいんじゃない。守りたいんだ。すぅと息を吸うと、調理場にも聞こえるほど大きな声で叫んだ。
「僕は男が好きです! 許嫁なんて、真っ平御免です!」




