事後報告と兄弟喧嘩
明け方。
太陽が顔を出し始めた頃に、葉月は帰ってきた。イベントの打ち上げで大騒ぎしていたようだ。ちゃんと家に帰ってきたことにも、お持ち帰りの“品”がないことに感心はした。とにもかくにも、よれよれな葉月を捕まえて、俺は重要な報告をした。甘川と付き合い始めましたよ、って。この世のあらゆる面倒はマジで勘弁、みたいな顔をしていた葉月の様子が一変した。
「……え? いみわかんない。もう一回言って」
「だから、甘川と、」
「そうじゃない! どういう意味か聞いてるんだよ」
心外だ。葉月のことだから「よかった~。穣もこれで幸せだね!」とでも言うかと思ったが。どうしてそんなに険しい顔をするんだ。
「恋人ができたってことだよ。俺は、新たな一歩を踏み出したんだよ」
それに留まらず、抱え込んだ大荷物を居間の床に派手に落とすと、俺の胸倉に掴みかかってきた。
「バッカじゃないの!?」
一瞬だけ、言葉を失うけど、すぐにその反応に納得する。
ああ、お前の言う通り、俺はバカなんだろう。だからこそじゃないか。バカだからできたことなんだ、褒めてくれよ。久しぶりだと思った。こんな乱暴な力で、激しい声で、眉を吊り上げた葉月を見たのは。そのまま、強く壁に打ち付けられた。
「時雨さんはどうしたんだよ」
二言目には、時雨さんときた。いい加減、苦しくて苦しくて、聞きたくない名前だ。半ば引き剥がすように、アルコールの分解中で冷たい葉月の手を外した。
「葉月も気付いただろ。あの人はもう会いに来ないよ」
「本人に聞いたわけじゃないだろ。なに勝手に自己完結してるんだよ」
聞いたんじゃない。聞いたんじゃないけど、言葉よりも確実なものがあったんだよ。
「良いんだよ。葉月が言った通り、時雨さんは俺のこと、何とも思っちゃいないんだから」
この言葉、半分は葉月へのあてつけだった。
それに感化されたわけじゃないんだろうけど、葉月は思いつめたように告白した。
「時雨さんは、お前のことが好きなんだ!」
でも、こころに届かない。だって、初耳だよ。お前はそんなこと、今まで一回でも言ったか? 「シグレサンハナツキノコトナンカミテナイヨ。」これだろう? お前が呪いのように俺に刷り込んだ言葉は。こうなった今、いい兄ぶるなよ。
「どうして分からないんだ。どう見たって……、」
彼は一度噛んで、言い損なった。しかし、間髪入れずにまた、噛み付くように言葉を発する。
「もう来ないと分かったら引き止めろよ。好きだって、殺したいほど好きだって言えよ! そんな根性無しだとは思わなかった、今更諦めるのかよ」
なんで葉月がそんな事言うんだ。あれほど言ったじゃないか。忘れろって。抑えていた心はもう限界だった。真っ黒い膿が流れ出てくるのを止めようが無かった。今度は俺が逆に葉月を掴むしかなかった。
「ふざけんな! お前に俺の何が分かるってんだ! 俺の項垂れてる背中を面白がって指差して笑っていたお前に、誠実らしいことなんて言われたくない! 好き勝手男に抱かれて幸せそうに笑っていたお前が、俺に何を語れるってんだよ! 誰かを好きになるって、死ぬほど苦しいんだ! ああ、そうだよ。殺したいよ。殺したいほど好きなんだよ」
最低だ。最低のことを俺は言っている。葉月をここで責めるつもりなんてなかったのに。俺を捕まえる彼のからだが、見る見るうちに熱をなくしていく。
「好きだ、って何度言ったと思う。何度拒まれたかわかるか。何度忘れようとしたと思う。それでも、時雨さんは現れた。その度に引き戻された。でも今度は違うだろ、もう来ないんだよ。『忘れろ』ってことだろ! ……分かってるだろ、葉月! どうして……どうして、こんなこと最後まで言わせるんだよッ」
葉月は呆然と口を開いた。
「ごめん……、」
零れた彼の謝罪は、茫然自失。俺だって、悲しくて悔しくて、苦しくてもう立っていられない。兄の華奢な肩に腕を廻して、酒臭いその身体を抱きしめた。その外側から葉月の冷たい手で抱え込まれると、ずるずると床にしゃがみこんだ。
「……ごめん、」
再び聞こえた、許しを乞う声。
「教えてくれよ。どうしたらこの苦しさから浮かび上がれるんだ。時間が経てば忘れられるのか!? いつまで待てばいい!? いつになったらこの苦しさから開放されるんだ。分からないなら、答えられないなら、今はただ、『よかったね』って笑えよ、なぁ、葉月……」
葉月の胸に顔をうずめて泣いた。この格好では確かめようもないけど、葉月はきっと俺を見ていない。死んだように、真正面を見ているだけだろう。俺の頭の向こうを。くすんだ目の色で。
「ごめん」
ごめん。ごめんね。許して。その言葉が延々と耳に流れ込んでくる。葉月は泣かない。俺が泣いているから、葉月は泣かない。でも今、葉月は泣きそうに頼りない声でごめんねを言うのだ。
「……ごめんね、ごめんね、夏生。どれほど辛いかは、分かるんだよ。死にたいくらい、ね。溶けて消えてしまいたいくらいだ、って」
葉月の心が段々と、この場所に戻ってきているのが解る。ゆっくりと、兄の手が背中を擦っている。
「葉月、……ごめん」
――ごめん。
――ごめんなさい、お兄ちゃん。
謝るのはこっちだ。お前は聡いから気付いていただろう。俺の、お前に対するかすかな妬みを。八つ当たりの恨みだって解ってる。だって、時雨さんはつかみどころがないんだ。何に悲しみをぶつければいいのかわからなかったんだ。それを全部、知らん顔して受け止めていてくれたのは葉月だ。
「……んーん。夏生は悪くないんだよ」
葉月は、身体を離して、悲しそうに笑った。その笑みに、積み上げてきた呪詛の思いを恥じた。
いつもみたいに仲直りのサイン、額をゴチリとぶつけ合わせた。今回に限っては、それは「うやむやにすること」の意味はない。ただただ、静かな謝罪だ。
そのあとどうしたかは覚えていない、ただ、久しぶりに客間で一緒に寝ることになっていた。葉月は、まだ涙が止らない俺を腕に抱いて、いつまでも背中を摩ってくれていた。俺が眠りに落ちるまでそうしてくれるんだろう。
こころに小さく、言葉が引っかかっている。――『どれほど辛いかは分かるよ。死にたいくらい、ね。』葉月がこんなに辛かった時、俺はこうして傍に居てあげられただろうか。葉月の想いの話は今まで聞いたことが無かったんだ。
「葉月も、時雨さんが好きだったのか?」
葉月は、心底「呆れた」って顔をした。
「やめてよ。僕があんな性格悪い俺様男を好きになる訳無いでしょ、」
「……同属嫌悪?」
葉月は背中を擦るのをやめて、困ったように笑った。
「……本当に、夏生は人の気も知らないで」
「何も教えてくれないのはそっちだ」
俺は不平を言ったのに、彼はにっこりと愛らしい笑みを浮かべるだけだ。こんなふうにして、俺は兄に救われていたのだ。心の底から、天使みたいなこの兄の幸せを願った。誰にかって、神様に。俺のことを見捨てるつもりらしい、じゃあ、葉月のことくらいはこのまま幸せにしてくれなきゃ。
そのくらいは働いてもらわないと。俺たち二人で一つの器が、なみなみと幸福で満たされる日が来るには、ひどく遠くなるから。




