穣、覚悟を決める。
え? とだけ発した私の声は、彼には届かなかったでしょう。
だんだんとエレクトロニカルな音楽がフェードインしてきたのです。チカチカとレーザービームのような光線が走り始めます。足の痺れから回復していくような心もちのなか、ごまかすように笑ってしまいました。
「はは、ああ、この後ですか。いいですよ。お買い物でも、お食事でも、どこへでもお付き合いいたします」
唇をきりと結んだ夏生ちゃんの横顔。息が詰まるほどの沈黙のあと、彼はステージ上から、私へ、ぎゅっと視線を合わせました。
「だから。俺と恋人にならないか、って聞いてるの」
爆発のような音を立てて、音楽は大音量になりました。と同時に光は明滅し、夏生ちゃんの顔を古い映画フィルムの映像ようにカクカクと私の目に届けさせました。
「それは……私と、夏生ちゃんが……付き合うって事ですか?」
彼と私との間、人差し指を往復させました。わたしと、あなた。私と、夏生ちゃん。目眩を起こしそうなほどの光と音の中、貴方は困ったように微笑みました。
「二回も言わせるなって」
――ああ。貴方は意地悪です。
どうして、今、言うのでしょう。まさに今から、素敵なファッションの世界が繰り広げられるというのに。その言葉より素敵なものなんてあるはずが有りません。全て色褪せて見えてしまうことでしょう。
私は、ただ小さく一回、頷きました。力なく頷きました。
「……泣くなって、」
私は泣いているんですか。そう優しい顔で言われたって。ああ、貴方は意地悪です。涙で舞台が見えやしません。どうしよう。どうしようもなく、隣で穏やかな顔をしている王子様が恋しくてならないんです。
葉月さんの作品はどれだったか。それすら記憶にありません。
◇
殿宮時雨の件について頭が回ったのは、夏生ちゃんと上宵浜駅でテレながらバイバイした後のことです。その時の「シマッタ!」感といったらありません。どうして、浮かれてそのまま頷いてしまったのでしょうか。
それから立ち尽くしたまま、ごくごく遅いスピードで頭は動いていました。彼に似ている私は、彼の身代わりってことでしょうか、とか、殿宮時雨の結婚を知ったからご乱心なのか、とか。
それでも、『男の約束』を胸に秘めた私は、夏生ちゃんに何も問えません。「だからなんだと言うんです」の気持ちがむくむくわきあがってきました。私は、根本的に楽天家なはずなのです。
貴方が『殿宮時雨』で傷ついたなら、いくらでも胸を貸してあげます。忘れさせることは出来なくても、忘れるまで傍に居ることは出来ます。身代わりにしたいのなら、いくらでも身代わってやりましょう。新しい恋に踏み出したいのなら、いくらでも応じましょう。貴方が私を好きになろうとする努力以上に、私は大きく、貴方を待ちましょう。貴方が私を抱けなくとも、私は貴方の心を抱きます。
いいですか。私は、恋以上に、貴方が大切になってしまったのです。
そのくらいの覚悟は、抱いていました。その時の私は、全身全霊で幸せだと、言い聞かせていたのです。それでも、心に出来た小さな腫瘍には、見てみぬふりを決め込んだのです。後でそれがどれほど大きく腫れるか知りもせずに。
結局のところ、彼は殿宮時雨の結婚話を知らなかったのです。




