八月五日、午前何時だったのだろうか。
葉月はそれでも、我儘な時雨さんにキチンとダージリンを用意した。
「ふう……。甘うまぁ……」
葉月は、冷房の効いたリビングへ小さく暖かい息を吐く。彼は紅茶関連品にはこだわっていて、ミルクティー用の牛乳もこだわって買ってくるので、普通に飲むと怒られる。
一方、俺は珈琲派だ。当然だが、俺たちはちょこちょこ嗜好が違うのだ。
「やっぱり、夜はミルクティーだよな」
時雨さんはわざとそう言ってミルクに手を伸ばす。そしてその手を葉月がはたく。
「駄目ッ! せっかくダージリンで淹れたんだから」
ちなみに、葉月に言わせれば、冷たいミルクを後入れするのは許せないらしい。じゃあなぜここに持ってきた、という話なんだが。
時雨さんは、「冗談だって」と笑ってかわす。
「ふん! 夏生はこんな性悪男のどこがいいんだか」
葉月にわかってもらっちゃ困るよ。
「……で、何しに来たの、時雨さん。まさかお茶飲みに来た訳じゃないでしょ。今日は夏生の誕生日だからね?」
「知ってるよ、だから来たんだろうが。……ほら、お誕生日プレゼント」
時雨さんは、赤いリボンのかかった小さいクリーム色の箱をポケットから取り出した。婚約指輪を連想した俺は馬鹿だ。その赤いリボンには、シックで上品な仕事をする、自分も葉月も好きな老舗ブランドの名が刻まれている。
「いいんですか、こんな高価な、」
「いいのいいの。葉月クンにもちゃんとあるからな。お揃い」
「え、僕にも? ありがとう、時雨さん好きー!」
ホント、葉月は調子いいよなあ……。「質屋で売ったりするなよ」と葉月は頭を小突かれている。
包みを解くと、まさに指輪が入っていそうな紺の箱が出てきた。箱をそっと開けば、きらきらと高貴な光で輝く二つのボタンのようなものが、シルク生地で覆われた台に置かれている。カフス・ボタンだ。葉月はさておき、俺には遠い話だな、とわずかにクラっとする。
「これが様になるような男になれよ」
彼は最高に格好いい横顔でそう言った。
その夜、彼は泊まっていった。
客間に布団を敷いたが、時雨さんは葉月が寝入った後に俺の部屋にやってきた。しばらく彼は、俺が寝ているベッドの縁に座って、ぽつり、ぽつり、と説教のような教訓のような話をしていた。
でも、正直、良く覚えていない。その声だけで、どうしようもなく身体が疼いてしまって、それどころではなかったからだ。痛いくらいだ。
腕を伸ばして彼の服の裾を引っ張ると、初めて気がついたようにこちらを見て、暗い中でふっと悲しそうに笑った。
「なんだよ?」
「……来てよ」
「まだ言う事あったのに、そんな顔見せやがって」
冷房の静かな機械音が耳に残ったまま、眠りに落ちた。
夏は朝日が昇るのが早い。カーテンの隙間から陽光が漏れて顔に刺さっていた。のどがカラカラだ。昨夜は冷房をつけたまま寝てしまったようだった。
布団に顔をうずめたまま、携帯電話で時間を確かめようと手を伸ばす。手はさらりとした何かに触れる。髪の毛だ。なんと、時雨さんがまだ隣で寝息を立てていた。
夢を見ているのかと思った。寝顔を見るのは初めてだった。綺麗な唇はごく薄く開いたままで、長いまつげが影を作っている。上品さと荒々しさ。そんな二面性を持った彼の、刹那の凪だった。
ただただ、美しかった。悲しいほどに儚くて美しかった。
彼の頬にかかる黒髪をそっと払う。昨日から感じていた不安が形を持ち始め、「なんとなく」から確信に変わった。
『彼は別れの挨拶にやって来たのだ。』
それが何故なのか問いだせる権利も持っちゃいないし、引き止めるだけの勇気も足りない。
でもね、時雨さん。貴方が知っているよりももっと、僕は貴方が好きなんだよ。それこそ、傍に居られるなら、ダンボール暮らしも厭わないないくらいにね。
静寂の時雨さんの胸に顔を押し付けて、声も出さずに、泣いた。それが俺の8月5日、19歳の誕生日の朝だった。
◇
彼が帰った後に気が付いた。特別にもう二つプレゼントがあった。――写真だ。一番幸せだった頃の。父さんが、俺と葉月を両手で抱いている写真。
もう一つは、ネクタイ。相当上等なやつ。社会人でも、いい立場にならないと使えないほどの。「スーツは男の戦闘服。ネクタイは男の象徴。」なんて陳腐なメッセージが同封されてて。どうやら、よっぽど俺に白鷹グループの一員になって欲しいらしい。その上、俺がいい立場になれると見込んでいるらしい。
いつも俺に「馬鹿、馬鹿」言うけど、時雨さんこそ馬鹿だよ。俺がこんなの身に付けられる筈が無いじゃないか。例え時が経って、このネクタイに相応しい男になったとしても。
貴方を思い出すじゃないか、そんな悲しいネクタイなんて、使えるはず無いよ、時雨さん。




