八月五日、午前二時。
8月4日は、甘川兄弟(森栖兄弟でもいいが)、賑やかな二人がやってきた。
森栖さんは相当上等なスーツを、甘川はそれに良く合う洒落たネクタイを贈ってくれた。さすがは森栖さんの見立てだ。どちらも自分に良く似合った。全く、こちらが気後れするほどのプレゼントだ。俺はホストじゃないんだけどな。バイト先の結婚披露宴に呼ばれているんだ、このスーツとネクタイを着てみよう。
そして、時間は8月4日と5日の境目に遡る。
真夜中に携帯電話が鳴り響いた。眠っていた俺は、もぞもぞとしつこいその電話の主に文句でも言ってやろうと通話ボタンを押す。
《……寝てたのか?》
その低い声を聞いたとたん、眠気は吹っ飛んで、布団から飛び起きた。
「時雨さん!」
彼は小さく笑った。
「どうしたんです、電話かけてくるなんて!」
《今日は何の日だ》
は……? 今日?
日付は変わっていて、8月5日をデジタル時計が示している。ハチガツイツカ。
《誕生日おめでとう》
掠れた声になってしまったけど、なんとか感謝の言葉を告げた。うっかり涙声になるところだった。ばかばかしいけれど、ほんとうに。
《夏生も19歳か……。早いもんだな》
感慨深げに言う時雨さんは、ちょっとだけ中年くさい。
「時雨さんが一番初めにおめでとうを言ってくれたのは初めてです」
《葉月お坊ちゃんはいないのか?》
いつもは葉月が一番目の「おめでとう」だ。それは騒々しい出来事で、毎年変わらなかったんだけど。それがなくて少し淋しい、という感想を今言うのはやめておこう。
「いや、いますよ。ただ、最近、忙しそうに部屋に籠もってるんです。サークルのファッションショーのことで」
《ああ、そうだったな。葉月は手先が器用だからな》
時雨さんも、葉月のファッションショーを知っている。見ることはできない、と言っていたけど、本当は密かに来るんじゃないか、と期待している。
「葉月はヘアセットやメイクの方の担当らしいですよ。俺はそっちの方面は明るくないんでわかりませんけど」
《いや、納得だよ。あいつ、夏生の髪を始終弄りまわしてたからな》
「おかげで何度先生に怒られたか」
俺と葉月は、中高一貫男子校「私立凛聖学園」に通っていた。エリートな上に秀才・天才が集う学校で、「白鷹夏生」はほんとうに平凡だった。いや、むしろ下層に位置していた。それは別に構わない。俺より上のヤツなんていっぱいいるし、上を目指すのは自分の性分じゃない。むしろ、自分の性を正しく理解する方が何倍も有効だと思っていた。
大した家柄でも頭脳でもない俺たち白鷹兄弟は、意外と好き勝手にしていた。その中の一つに、葉月によってくるくる変えられた俺の髪の毛に教師が目くじらを立てたことがある。でも、「兄が勝手にやったんです」なんて訴えられないし、黒幕の葉月は一切のお咎めナシだから困ったものだ。
《……お前、葉月から何か変わったこと言われて無いよな?》
「何も言われてません。どうしたんです、また何か?」
《ああ、まぁそんなところだ。大したことじゃない》
大方、このまえの写真展の件だろうな。時雨さんや俺、昔からの葉月を知っている人間にはなかなのセンセーショナルな題だ。ふらふらした葉月が恋人を作るなんて前代未聞。
「……あいつ最近恋人できたんです。今まで作らなかったくせに、変な奴」
知ってる。じつに短い言葉で切り返された。
《夏生、お前はどうなんだ? 何してる?》
「いつものように勉強して、バイトして、本読んでいるだけですよ」
言葉にしてみると、ホントにつまらなそうな生活だ。
《相変わらず内向的だな》
――世の中には内向的な人間と外交的な人間とがいる。ってか。だれだっけ、そんなことを言った心理学者は。
「僕は会社には勤めませんし。研究者にでもなります」
《『にでも』なんて生意気な口利きやがって。そんな簡単になれるもんか》
「でも祖父様……時雨さんのお義父さんは慶浜の教授だったでしょう? ……なんて」
だから俺は慶浜大学に進学することを選んだんだ。貴方の義父がいて、そして貴方も通過した場所だ。
《ははは。義父さんが口利けるなんて大間違いだぞ》
そんなの必要ないんだってば。俺の人生の目標はきまってるからさ。
「……じゃあ、時雨さんの婿にしてよ」
《馬鹿、そんなことできるか》
焦ったように切り替えされたから、へこむ。いつものことだけど。
《今からそっち行くから》
出た。時雨さんの、気まぐれなアメとムチ。ムチは必ずと言っていいほど与えられるからいいとして、アメを忘れるからたちが悪いんだ、この人は。
「この家にですか? 俺が行きますよ、」
だってここには葉月が居る。
《馬鹿。こんな夜中に可愛いお坊ちゃまが一人で歩いてたら喰われるぞ》
「また子ども扱いして」
《十九はまだ子供だろ。いいから待ってろ》
時雨さんは乱暴に電話を切った。
それでも俺は知っている。車の扱いはとても穏やかだということを。……暗喩だ。
◇
言ったとおり、彼は都内から車を走らせて、午前2時頃にマンションへやってきた。
「よ」と、乱暴に片手を挙げて挨拶をする。しかし、凛とした表情は美しい。
「いらっしゃい」
少し遅れて、葉月がぼそりと同じ言葉を言った。時雨さんは俺たちの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「なんだ、葉月その面は。可愛くねえな」
「今何時だと思ってるんですか」
「お前は寝てても良かったんだぞ。俺はお誕生日の夏生くんに会いに来たんです~」
まったく、玄関先で言い合うのはやめてくれよ。
「やめろよ葉月、時雨さんも。葉月、時雨さんが来るって言ったら部屋から出てきたんですよ」
「ったく素直じゃねえなあ」
「……たまたま、お茶でも飲もうと思って出てきただけだもん」
俺は、時雨さんの電話がかかってきた時から妙な胸騒ぎを覚えていた。今までこんなことがあっただろうか。俺にアポイントを取ってからやってきた。誕生日に電話をかけてきた。
それでも、傍で今日は優しげに微笑んでいる彼を見ると、愛しさがその疑心暗鬼を覆い隠してしまった。
「ふうあ……」
葉月の隠すこともしないあくびが聞こえてきた。「お茶を飲みに出てきた」なんて憎まれ口を利いたもんだから、お茶の用意をさせられている。
「ねぇ、お湯に溶かす抹茶ラテとかでいい?」
「なめてんのか、そんな乳くせえのいらねえよ」
「甘いのは葉月しか飲まないだろ」
「何だよ~二人とも文句ばっかり! 分かったよ! アッサムでいいでしょ? 僕はミルクティーにするけど、二人は?」
「俺、ストレート」
「俺、ダージリン」
「だからアッサムって言ってるでしょ!」
キッチンから、不快そうなお達しが。時雨さんは益々愉快になる。
「お茶ッ葉変えるだけだろ。ちゃ~んと蒸らせよ」
この人は時々大人気ない。もちろん、わざとだけど。わざとだからたちが悪い。
「おい、葉月。雑巾汁とか入れるんじゃねえぞ」
欠伸のあとは、小さな舌打ちか。




