穣と時雨の「男の約束」
「その格好で女子トイレから出てくるのかよ」
「男」のくせに女子トイレということを言ってるのか、男装のくせに女子トイレということを言ってるのか、捉えかねました。私は気まずい表情をしていたのでしょう、男は、「なんでもかまねえけど」と、質問を取り消すかのように笑い飛ばしました。
まあ何をどう思われてもかまいやしないので、「うっかりしてました」と流して返します。今、それは些事だからです。
「あの、貴方は……?」
私を観察しているのか、彼は視線を動かさず、口の端をわずかに上げたアルカイックスマイルでしばらく沈黙していました。
あんまりだんまりなので、もう一度言うべきかと思い、あの、とまで口にしたところで彼は、「葉月のおじだ」と答えました。
「おじって……え?」
つまり、叔父。白鷹兄弟の親御さんの弟さん、ってことですよね。彼、凄く若いんですが! 二十代には見えますよ? 場合によれば、大人びた大学生にも見えるかもしれません。
この驚きを察したのでしょう、彼は心得顔で頷きます。
「歳近いからな。血のつながりは無いし、ちょっと特殊なんだよ」
叔父で血の繋がりがない、ですか。ということは、白鷹兄弟の親御さんとは義理の仲ってことになります。ということはつまり……いや。ややこしいことはもう考えるまい。
「さっき、何か聞こえたか? 五月蝿くして悪かったな」
ギクリ、と冷や汗が垂れそうです。しかし、彼はひらりと手を振ってみせました。
「あ、いい、別に責めてるんじゃない。謝ってるだけだ」
私は正直に白状します。
「……あの、その、少し。葉月さんが泣いていて……、夏生ちゃ……夏生君がどうだとか……」
聞こえたか。と彼は苦笑しました。
「葉月と知り合いのようだし、葉月に夏生っていう弟がいるのは知ってるよな?」
肯定のため、頷きます。
「それで、ええと。ちょっと聞いてしまったのは、その、貴方がご結婚される、といった話で。家庭を持つとかどうのって聞こえたので……おめでとうございます? そうなのですか?」
初対面の方に、こんな私的なこと、しかも盗み聞いた内容についてをずけずけと聞くのは失礼だと存じています。しかし、ある疑いがもやもやと広がりつつありました。ゆえに、失礼か慎んでいるか、そんなことに拘わってはいられないのです。
「こりゃどうも。まあそうなる」
彼はとってつけたような笑顔で答えるのです。
疑いは、抱えたままではなくて、解決せねばなりません。
「……あのですね。僕も少し、事情に通じているんです。だから、こう予想します。……ひょっとして、彼……夏生ちゃんが好きなのは貴方なんですか」
彼は何も言ってくれません。厭な沈黙です。少なくとも私にとっては。
「前に葉月さんが言ってました。夏生君は、昔から面倒を見てくれていた人がいて、その人がずッと昔から好きだ、って。……叔父の貴方、なのかなっ、て」
「葉月の奴、お喋りだな」
というかむしろ、貴方以外に考えられないのです。貴方のその物腰、まなざし、声色。似ていないのに、夏生ちゃんの面影がちらちらと思い出されるのです。その間、私にしては妙に無表情だったと思います。
彼は携帯灰皿の上でタバコの灰を落とします。不思議と、その仕草は悪魔的に色めいて見えました。私がそれに見惚れていますと、ピタリと、彼はタバコを叩く人差し指を止めました。
「いや。というか、あんたは話をきいていた」
「……貴方も、彼が好きなんですか?」
なんでしょう、彼は「またかよ」と言うような苦笑を浮かべました。指は再び動き出し、携帯灰皿の中にタバコを落としました。
「で、まあ。僕も彼が好きなんですけどね?」
「だから聞くのか。もてるねえ、俺の夏生クンは」
「ええ」
彼は、ほんの少し驚いた顔をして、でもすぐにくしゃりと笑いました。
「変な奴だな。なんだか、本音を話したくなる」
「何を言うんです。建前なんか聞かされたって、僕はどうしようもありません」
彼はからからとした笑い声を上げました。
「その通りだな。……そりゃ、夏生は大好きだよ。背骨が折れるほど抱きしめて、首根っこに齧りつきたいくらいな。で、多分アイツも俺の事が大好きだよ、オメーには悪いけど」
屈託の無い笑顔で、さらりと言ってのけましたが、それだけで十分でした。親や兄弟の「好き」じゃ無かったのです。私とおんなじです。私が夏生ちゃんに抱くとおんなじ、「好き」です。
彼は、大きな手で私の頭にポンポンと触れました。
「あいつらにはまだ別の幸せが残ってるんだ。だから、くれぐれも話は漏らしてくれるな。あいつ、ああ見えて馬鹿だから何かしでかしそうだ」
何故、想い合っているのにこの人は結婚を選ぶのか。何故、葉月さんは泣いていたのか。そこには、私などがこれ以上首を突っ込むのは野暮である問題が横たわっていることでしょう。
ただ、彼の今の言葉を聞き、その目を見ただけで、ああ、この男性は、夏生ちゃんが何にも代え難い大切な人であって、愛しているんだなぁ、と理解させられたのです。
「……どうして貴方は微笑んでいられるのですか? 自分の幸せは求めてはいけないんですか?」
「おまえなあ。人の心配してる場合かよ。脈なしじゃん、おまえ。……ん?あれ、でも、良く見たら俺に似てるじゃねえか、顔。きっと夏生が好きなタイプの顔だ」
いや、その上から目線どんだけですか。そもそもこちとら男じゃないんですよ。
しかしここで私は、夏生ちゃんが私の父の写真を見て言った言葉を思い出しました。「あんまり似ていないんだな」と。あれは、この人とのことだったんですね。そして、初めて会ったあの日、この人と似た私に、「付き合って」だなんて、言ったのですね。
わたしの知らない、あなたたちの抱える問題の全貌、それが横たわっている。そこから逃れようと、もがいて私に向かって動いたのですね。
どうしてでしょう。想い合っているのに離れようとしている二人。どうしようもなく悲しい気持ちで、隣に座っているこの男性の横顔を見つめていました。自分の恋路もこのときばかりはすっかりかすんで、取るに足らないものであるような感じがしたのです。悔しいことに。
しばらく、前面の壁を、二人して見るとは無しに見ていました。
「ああ、しくじった。喋りすぎたなあ」
「いいじゃないですか、喋ると楽になることもあります」
白鷹兄弟の事情の詳細を知った私は、調子に乗っていたのでしょう。下らない、陳腐な言葉を恥じらいも無く言ってのけたのですから。この人の様子が変わったのは、この一瞬からです。薄ら寒い気配が漂ったので、彼の横顔をチラと見ます。黒豹のように鋭い目線が、そこにありました。
「……違う。お前は俺の信用に足る人物かどうかも解らないのに話しちまったんだ」
彼はゆっくり立ち上がると、私の顔の脇、急に荒々しく手を付きました。まだ変化に馴染めなかった私は、声が出ませんでした。
「いいか、二度目の忠告だぞ」
彼は低い声のまま、指先を目の前に突きつけてすごみました。
「もし、夏生が俺の事情を知るようなことがあったら、真っ先にお前を疑うからな」
彼の豹変ぶりに言葉が出ませんでした。その目はもはや猛獣のように鋭く光り、私を射抜きます。彼の瞳の水は今や凍り付いていました。
「……忠告したからな」
身の毛もよだつ低い声でそう言い捨て、彼は歩みだしました。
――どうして。因果関係がわかりませんよ。どうして私があなたに疑われる身になるんです。
でも、己が夏生ちゃんの王子様たらんとするならば、私の立場は明確です。
「……待ってください」
私の呼びかけに、彼は顔だけで振り向きます。
待ったをかけたわりに、恐ろしくて彼の顔を見ることが出来ない私は、就職面接の男子学生のように膝の上に握りこぶしを置き、それを見つめながら宣誓しました。
「僕も、夏生くんが大切なんです。さあらば、僕は、秘密を守りますッ!」
彼の抱える秘密を得んがために、あえてむちを装ったことなど、すっかり失念していました。
ところがどっこい、彼はとてもスムーズな反応をするのです。
彼は、身体もこちらに向けて、言い放ちました。
「誓え」
了承の合図に、首が痛いほど大きく頷くのです。
「男の約束です」
彼はまだ何か言いたそうに口を開きましたが、でも、何も言わずに私に背を向けました。
私が貴方――夏生ちゃん――の王子様たらんとするならば、「時雨さん」とやら、貴方の忠告に従いましょう。とりあえず、今は。




