穣と時雨の探りあい
葉月さんは、嗚咽を漏らして泣いていました。
「なッ……、夏生に、な、内緒で進める、つもり?」
「ああ。来年の桜が咲く頃には、俺もどこかで立派な家庭を持つ」
「どこかって……、まさか……消えるの?」
「消えなきゃ意味ねえだろ」
「夏生」と、確かに葉月さんは言いました。何の、何の話をしているのでしょう。
しかし、コレは盗み聞きってやつじゃあ、ありませんか! いけません、甘川穣、漢として許されざる蛮行です。
くるりと踵を返し、トイレは別階でしようと思い立ちましたところ、文字通り出鼻をくじかれました。誰かの硬い胸板にまともにぶつかってしまいました。「……すみません、ボーっとしてて……」
「よ~お、ユズルちーん。な~にしてんの、驚かそうと思ったのに」
聞き飽きた声の男が、ポケットに手を突っ込んで忌まわしい阿呆面をぶら下げていました。やばいです、今のはばっちり奥の二人に聞こえたはずです。このタイミングであらわれるところにうっすら殺意がわきます。千堂このおバカ……!
人差し指を口の前に当てて彼を黙らせつつ、彼の胸倉を掴んだときです。背中に、ひ弱な葉月さんの声が掛かりました。
「……穣? 千堂くん? どうしてここに?」
「白鷹兄! 丁度良かった、探してたんだよ。受付の女の子には、その辺にいるって言われてよお、」
千堂は、私の焦りにも気づかずに能天気に手なんか振っています。
「会場に行ったんだけどさぁ、受付5時までなんだな~。な、今から特別に見せて」
と、拝むように手を合わせる千堂。貴様がそんなに写真に興味を持っていたとは意外なのですが。いいよ、見せてあげるよと微笑む葉月さんの目はウサギのように真っ赤でした。やはり、泣いていたのです。
普段文化的なことをしないくせに、な~に柄にも無く来ちゃってるんですか。しかも図々しいことを言って。葉月さんを休ませてあげたいです。空気と言うか、気配を読め、千堂この阿呆ぅ!
そうしてじとっと睨んでいると、千堂は怪訝な顔をしました。
「お前こそ、ココで何してるんだよ。見終わったならさっさと帰れよ」
阿呆の癖に鋭いところをついてきやがります。
「あの、トイレ行こうと思ってですね!」
「なるほどね~。ワリィなぁ、途中で声かけて。漏れそうなんだろ、早く行けよ、便・所!」
下品に笑いながら千堂は私の背中を豪勢に叩き出すのです。振り返って、いきり立った我が中指と共に「ファックス!」と言ってやろうと思ったときはすでに、葉月さんと肩を組んで展示会場に向かっておった。
仕方なく、そのまま便所、もとい、お手洗いへ行きました。なんだか、戸惑ってきょどきょどした顔をしていたので、思い切り水を浴びて洗顔しました。
髪からぽたぽたしずくが垂れるのも払わず、トイレから出て行きますと、千堂と葉月さんの姿は消えていました。当然ですが。
「……いないですね」
という独り言に、返事が返ってくるとは思わなんだ。
「葉月の友達か?」
廊下の曲がり角から、先程葉月さんと会話をしていたの声の主が話しかけてきました。壁にもたれ掛かってスーツ姿の男が煙草を呑んでいます。
無意識に、彼の正面に回りこむように歩み寄って行きました。彼の顔をまともに見据え、ハッとしました。――誰かに、似ている。でも誰だか思い出せない。
動作や言葉遣いは乱暴そうなのに、オソロシーほど整った顔立ちに、気品あるオーラをまとい、第一印象を決めかねるような、不思議な印象を与えます。
彼は、私を見ると、張り詰めた水のような緊張感のある目をふわっと緩めて、優しい表情になりました。
「そんなに顔から水たらしてみっともねえな。ほら、これで拭けよ」
彼は、見るからに高級そうなハンカチを差し出します。ハンカチから彼の顔に目線を移します。こころもち、睨み気味だったことでしょう。だって、おそらく彼が葉月さんを泣かせたんですから。
「……そんな、使えませんよ」
「いいから」
彼は、ハンカチを広げると、強引に私の顔や前髪をガシガシと拭きました。そして、その上品な指で前髪は斜めに流されました。
「おら。出来た」
「……ありがとうございます」
私が目を開いた時、彼は意味ありげに私を見つめ、口をわずかに開いていました。が、ハンカチを握りしめて微笑みました。
「キレイな子だな。もてるだろ」
彼は長椅子に向かって歩きながら、携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し込みます。椅子に戻り、彼の傍らをポンポン、と叩き、「座れよ。」と言います。
なんとなく始めて会った気がしないまま、そろそろと彼の隣へ腰掛けました。




