時雨と葉月の秘密会話 その1
「ふあぁぁぁ……、ねむ。……あひひゃひゃ!」
「白鷹ぁ。私の傍で大あくびとはいい度胸だな。何回目だ」
水野は、何度目か分からない大あくびを連発していた葉月の頬を容赦なくつねった。今二人は、写真研究会の学内展示会の受付を担当している。
「あはは、白鷹くん、どうしたのぉ~?」「可愛い~」葉月は顔が広く、客の中にも顔見知りが多くいた。たった今やってきた服飾製作サークルの女友達に、彼は笑われてしまった。
「いらッひゃいませ。センパイが僕をいじめるんだよ~。来てくれたんだ、アユちゃん、ナオちゃん。ハイ、これアンケートと作品目録。ごゆっくり」
「ありがと~。受付頑張ってね~」
葉月は、笑って彼女たちに手を振った。そのつむじに突き刺すような皮肉をこめて、言葉が落ちてくる。
「お前も可愛い顔するんだな、葉月」
聞きなれた、嫌な声を聞いた葉月の笑顔が凍りつく。見なくても、からかいの主が誰かは分かっていたが、しぶしぶ顔を向ける。やはり、スーツを着込んだ、腹が立つほど男前な人間が立っている。
「……なにしてるんですか、時雨さん。こんなところで」
黒髪は清潔そうで、瞳は鋭い。あらゆるものを捕らえるような、知的で聡明そうな表情だ。
「これをな、夏生からもらった」
ヒラヒラと、この展覧会のフライヤーを振っている。
「ほら、俺はお客さんだぜ、さっきの笑顔を見せてみろよ」
「……フン。馬鹿にしてさ、」
水野が軽く葉月の頭を殴り、
「こちら目録とアンケートです。ごゆっくりどうぞ。」と、男に渡す。
「ありがとう」
時雨は、ため息の出るような微笑を残して、会場の中へ混ざっていった。
「……誰あれ? 知り合い? めっちゃカッコイイな」
「……兄みたいなもんです。あの性悪男め」
ぶすぶすと不満を抱えた横顔で、葉月は答える。
「お前も性悪だろうが。さっきの女の子たち、絶対騙されてる」
「いいんですよ、女の子には適当に優しくするんです。僕、興味ないもん」
「それが性悪なんだよ」
呆れのため息とともに彼女は呟いた。
「……ねぇ、水野さん、あの人とちょっと話してきてもいいかな?」
とたん、彼女はきつめの表情を和らげる。
「全然いいぞ。ここは一人で十分。下宿生が家族に会えるなんて少ない機会だしな。ゆっくり話してこいよ」
彼は先輩にぺこりと頭を下げる。こんなとき、気を回してくれる水野を葉月は頼りにしていた。珍しく手放しで信用できる人間。
時雨は、ある作品の前で立ち止まっていた。と言うことはつまり、若いナンバーの作品群は流し見、もしくは見ていないとわかった。
「……貴方、全部ちゃんと観てます?」
「学生の独りよがりな写真なんか見れるか。特に、この写真。見てるこっちが恥ずかしいな」
見ていられない、そういう割りに、彼は食い入るようにその一枚だけを見ていたのだ。
「悪かったですね。僕の作品ですよ」
「知ってるよ。コレを見に来たんだからな」
また、綺麗な微笑を見せる。
はぁ? と、思わず、何の飾りもない露骨な顔で聞き返してしまった。べつに時雨は驚きもしない。どんな葉月も知っているからだろう。
「夏生がな、教えてくれたんだ。葉月が写真展に作品出す、って」
「……わざわざ、そんなことで?」
「お前は俺が気に喰わないようだけど、葉月も夏生も、俺にとっちゃ大事な弟だ。見に来て何がおかしい」
写真の技術に興味がないのは勿論、無関係の学生の写真は全く見ないで身内のものだけを見る。その姿勢は、展覧会に顔を出す親のようだ。ただし、葉月にとっては、その判断は胡散臭いことこの上ない。平板な瞳で、彼の言葉を切り取ってなぞる。
「……『大事な弟』、ねぇ」
彼の生やした棘に、男は全く頓着しない。刺さっているはずなのに。
「なんだ、この『恋人』って題は」
「見たまんまです。彼は僕の恋人ですよ」
男は目を見開く。意外な返答に僅かに動揺したのだ。ほんとうに、ごく小さな揺れだったので、葉月は気が付かなかった。
見下ろした先の、不満げな瞼の甥の姿は彼を冷静にさせた。言いかけた言葉をぐっと飲み込み、落ち着いた声をひねり出す。
「どういうつもりだ」
彼の甥は、長い睫毛を動かさない。憎らしいほど黙り込んだ後、彼のスーツの袖を掴む。
「……時雨さん、ここではなんですから、外で話しましょう」
「いいのか、お前受付があるんだろ」
手をポケットに入れたまま、半身をひねって受付の辺りを見る。また、新たな客が入場してくるところだった。葉月は、そんな時雨の腕を乱暴につかんで歩き出した。「許可は貰いましたよ」。
展示室を出て、トイレ奥の曲がり角、そこの合皮の長椅子に時雨を腰掛けさせた。時雨は、長い足を緩やかに組んで、壁にもたれかかる。葉月にとっては、自分が動揺しても、時雨はいつだって悠々としていたように思う。そんなところが気に障った。
時雨はポケットをゴソゴソ言わせて煙草を取り出す。
「煙草、いいか?」
「禁煙ですよ、棟内は」
「まぁまぁ、誰もいねえし」
「副流煙」
葉月は面白くなさそうにじろりとにらみあげる。彼にしてみれば、煙草の片手間に話を聞いて欲しくはなかったのだ。
「……厳しいお坊ちゃまだな」
ポケットに戻しながら、時雨は軽い調子で語りかけた。
「どうだ、義兄さんには認めてもらえそうか」
「その話はよしてください。どうせ知っているんでしょう。従弟の睦月を養子にするつもりなんだ、あのオッサン。睦月だって両刀使いなのに。うまいことやるよ。僕、あいつ嫌いだ」
「なんだ、妙に諦めたような口利くな」
「僕は、そんなことを話すためにわざわざ貴方と二人で居るんじゃないんですけど」
「そんなこと」ではない。だが葉月は、自分の将来の話題に時雨が割り込んできて欲しくないだけだ。すべて自分で解決したいと思っていることだった。今、自分が彼に話す夏生の事以外は。
「さっきも言いましたが、僕、好きな人ができたんです」
葉月はうなだれている。やがて、蚊の鳴くような声で問いだした。
「時雨さん、僕に遠慮しているんでしょう? 夏生のこと」
その質問を予測していたかのように、時雨は微笑んだ。葉月が見ていないところでの笑みは、全く意味がない。――切り口が、遠回りだ。そう思った。
「……お前、夏生が好きなんだろ? なのにどうして恋人なんか。今までそんなことしなかっただろ。何か嫌なことでもあったのか。まさか、義兄さんに…何か言われたか?」
「だから、父さんのことは関係ないってば! ……僕は、本当に好きな人を見つけたんです。それだけだよ!」
葉月は苛立ちで強い語気になる。
(……僕だけ、幸せになりそうなんだ。そんなのって……、)
しかし、次に発した音は、酷くあやふやで泣き出しそうだ。
「ねぇ、時雨さん。もう、いいの。夏生を……つかまえてやってよ……」




