葉月兄さんはご立腹のようです。
「……ただいま」
また、誰に言うでもなく挨拶してしまった。朝も10時は過ぎているので、葉月はとうに学校へ出ているはずだった。
俺はと言えば。これで初めて大学の授業をさぼってしまったことになる。でもあまり気にしてない。
昨日から持ちっぱなしの荷物を床に置き、本三冊分がプラスされた重みを実感した。でも、嬉しい重みだ。時雨さんは今朝も、俺が目を覚ましたときには姿を消していた。その時は、たまらなく寂しくなるんだけど、それはある意味、時雨さんがまたどこかで急にふと現れることの布石というか、また会えることの裏返しであると思っている。
玄関に座り込んで、靴の紐をゆるめる。その時だ。急に背中に衝撃が走り、よろけて玄関に手を付くと追い討ちのようにさらに衝撃が加わった。
「な~つ~き~ぃ。朝帰りだよ」
「……葉月、いたの」
四つん這いになった俺の背中に足を乗せた、悪魔の形相の葉月がそこにいた。ぐりぐりと、踵をねじ込もうとする。
「なんでひとっつも連絡よこさないのさ。僕、心配で眠れなかったんだから」
いい余韻に浸ってたのに、朝からコレだ。苦々しい思いで兄を見上げる。嘘つけ。徹夜したこと無いくせに。顔だっていつもどおりツヤツヤだ。そんな胡散臭い思いが顔に出ていたんだろう、葉月は
「……今のは嘘だけど、でも、本当に心配したんだから!」
とかわしたあと、くにゃっと泣きそうな顔をする。その隙に、仁王立ちしたままの葉月の足の間から這って部屋の奥に入っていく。
「自分は連日のごとく無断外泊やら無断連れ込みやらしてるくせに」
「僕はいいの。いつもだから」
自分は良くて俺は駄目とか……なんだそれ。彼はぷりぷりしたまま、キッチンまで俺の後をくっついてくる。
「夏生は、きちんとした子だから、昨日に限って何かあったんじゃないかって心配したんだ。メールも電話も返事はないし。こんな馬鹿みたいな夏生は久しぶりじゃないか……」
そこまで言って、何かと何かが繋がったような顔をする。
「……あれ、馬鹿、みたいな夏生と言えば?」
「分かったら、みなまで言うな」
急に緩んだ表情になる。
「なるほど。夏生を馬鹿な子にするのはただ一人だから、そういうわけなのね」
かかとに重心を置いてくるっと回ると、もう一度俺の顔を覗きこむ。
「昨日は良かった?」
「はーづーきー! やめろっ」
興味津々! の表情を隠すことなく、頬を紅潮させている葉月を一喝する。叱られた犬のようにぺしょんと縮む。
「なんだよ、夏生のケチ。少しくらい時雨さんの弱みを握らせてくれたっていいじゃん」
ぶつぶつ呟いている葉月は無視するに限る。――しかし、意外だ。時雨さんに関わることだと、葉月は大抵、不気味に怒る。彼は今、俺に背を向けて、キッチンの入り口に掛かっているビーズの暖簾をさらさらともてあそんでいる。
朝飯は? 腹減ったんだけど。という問いかけには、妙に冷たかった。
「しりませーん。食べてきたんじゃないんですかー。朝食セットサービスとかじゃなかったんですかー」
「俺が悪かったから、もうやめて葉月……泣きそう」
「泣けばぁ? この色ボケ小僧」
口が悪い葉月は可愛くない。いや、普通でも可愛いとは思わないけど。
冷蔵庫を開けると、妙なものが目に入った。家のものではない、花柄のタッパーだ。
「ああ、これ、昨日穣が来てね、穣ママの手作りお菓子、おすそ分けしてくれたの。もう空だよ。 クリームものだから食べちゃったよ」
「食べたのは別にいいけど、空なら洗っておけよな。甘川、何か言ってた?」
「あ」ぴょこん、と弾けるように手を打つ。「穣ママが遊びにおいでって」
甘川か……。あいつといると、なんだか日常が騒がしいというか賑やかというか。驚いたことに、それはあまり嫌じゃなかった。千堂に、姫草、森栖さん。あの高校生もそうなるかもしれない。本当は、得たくてたまらなかった、くだらないことで一緒に笑える、友達。
もし俺が女としてのあいつを拒んだら、去っていってしまうだろうか。そしてみんな一緒に消えるんじゃないか? だって、俺を必要としている縁なんて、どこにあるんだ。みんな、甘川から伸びた縁じゃないか?
甘川の気持ちには応えられない。でも、傍にいたい。これは俺の我儘かも知れない。ズルイことは承知で、知らないふりをしていよう。
少なくとも、お互いが友達として位置をキープできる限り。




