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乙女地獄で桜咲けり!  作者: 黒檀
第三章
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夏生の御袖の時雨もながめがちにて…… その2

 時雨さんは、僕の母とは血の繋がらない弟だ。祖父の再婚相手の連れ子というわけだ。(つまり俺や葉月とは血のつながりがない。)だから、成人もしてるし、仕事の斡旋をしてもらったわけでもないし、面倒だったら白鷹とは縁を切ってしまえばいいのだ。しかし、彼はそれをしない。


 有名な建築家が設計したという、扇形をした中央図書館に着いた。

 あまりに急いで走ったので、息も絶え絶えだ。はやる心を抑え、確実に一歩一歩進む。吹き抜けになった広いエントランスから、二階へ続く階段を上る。上がってから、左手の西側ウィングへ向かう。時雨さんは、文芸書コーナーにいるはずだ。

 乱れなく整然と配された書架が、今はどうしようもなく邪魔なものとして存在する。一列、一列、左右を確認しながら進んでいく。両脇の学習机や簡易椅子に座った人間も忘れず見る。

 最後の列の西側、窓脇の椅子。そこに時雨さんはいた。思わず一歩引いて、書架の間から観察してしまう。窓枠に右肘をのせ、軽く頬杖をついている。足は穏やかに組み、その上に本を乗せて、静かにページに目を落としている。集中しているようだ。黒い髪が、西日でオレンジ色に発光している。綺麗だった。

 音を立てずに近づき、彼の足元に膝をつく。


「時雨さん、」

 

 ごく小さな声で話しかけた。

 つ、と本に落ちていた視線が俺の顔を舐めた。その涼しい眼が、くっと細くなる。中性的な顔がふと、男性の色気をおびる。甘川によく似た顔。あいつを男にしたらこんな感じだろうか。

 左手で、そっと俺の頭を撫でる。


「……変な髪の色」


 ……まったく。それが最初に言う事かな。葉月が染めたんです、だなんて、しなくてもいい説明というか弁解を挟むことになった。葉月が、という余計な言葉。

 彼は、伸びをして小さくあくびをした。


「いい図書館だ。専門書は大学の方がいいだろうが、ここは文芸書の揃いがいい。ここも有効活用しろよ」


 彼は俺の顔をまじまじと見て、小さくふきだして笑った。 


「……なんだよ、しおらしい顔しやがって」

「会いたかったんです。だって、この前、時雨さんはすぐ帰った」

「馬鹿。こんな公共施設で愛の囁きなんか聞きたくねぇって」


 冗談でかわす時雨さんは、本を閉じると椅子から立ち上がった。膝立ちしていた俺の腕を引っ張り上げて立たせる。

 時雨さんは、ふらふらと書架の間を歩きながら、気まぐれに見える手振りで本を選び取ると、俺に渡してきた。カウンターで貸し出し手続きを済ませる。7冊。

「貸し出し期間は14日間です。延滞の場合は……」カウンターの伏目がちな女性が、規則を機械的に説明する。


 駐車場に向かいながら「コレと、コレと、……コレっと」と、俺に本を三冊を渡す。


「坊やはコレを読みなさい。面白い作品です」

「昔みたいですね」


 時雨さんは俺と葉月の教育係みたいなものだったから、こうしてかつては本や参考書を押し付けてきたものだった。


「夏生はまだまだお子様だ。いくらでも俺から学べるぜ?」


 そうして乱暴に俺の頭をぐしゃぐしゃにする。この本を貸してくれるということは、二週間以内にもう一回会える。嬉しくなった。


「さて、ご自宅までドライブしましょうか、夏生お坊ちゃま」


 時雨さんは、遠隔操作キーで車のロックを外し、俺を助手席に座らせてくれる。本を後部座席に放り込んで、時雨さんは運転席に着く。キーを回してエンジンを入れる。が、ギアはパーキングのままで出発しない。


「……夏生くん。交通法規は知ってるよね?」

「はぁ。原付免許持ってますので」

「とぼけるんじゃないよ。シートベルトしなさい」

「……時雨さんがつけてよ」


 ハッと息を吐いて、呆れたようにハンドルに上半身をもたれさせる時雨さん。


「お前な、」

「捕まったら困るのは時雨さんですよ」

「馬鹿か。自分で付けろ。さもなくば降りろ」


 顎をしゃくって、乱暴に腕を外に向けて振る。上品な顔立ちなのに、中年じみた仕草も平気でする。


「……嫌です。降りません」

「わーったよ! 白鷹の御曹司」


 時雨さんの言う「馬鹿」はとても好きだ。優しくて、温かい。彼は、助手席の左後ろのシートベルトの先端に手を伸ばそうと体を持ってくる。時雨さんの顔がすぐ傍にある。

 俺はそこを逃さなかった。

 唇が僅かに離れた時、彼は掠れた声で呟いた。むしろ、囁きに近かった。


「……誘導したな」

「分かってたくせに」

「生意気だぞ。年下の癖に」

「こういうことを教えてくれたのは時雨さんですよ」


 生意気だと責める時雨さんは、大きな手で俺の頬を壊れ物のように触れ、そしてまた、重ねた。


「夏生、」


 俺を呼ぶ愛しい声が、閉じたまぶたの上に、優しく降って来る。このままこの人をどこまでも引き摺りおろしてやりたかった。俺は、もう二度と上がってこれなくてもいいから。



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