夏生の御袖の時雨もながめがちにて…… その2
時雨さんは、僕の母とは血の繋がらない弟だ。祖父の再婚相手の連れ子というわけだ。(つまり俺や葉月とは血のつながりがない。)だから、成人もしてるし、仕事の斡旋をしてもらったわけでもないし、面倒だったら白鷹とは縁を切ってしまえばいいのだ。しかし、彼はそれをしない。
有名な建築家が設計したという、扇形をした中央図書館に着いた。
あまりに急いで走ったので、息も絶え絶えだ。はやる心を抑え、確実に一歩一歩進む。吹き抜けになった広いエントランスから、二階へ続く階段を上る。上がってから、左手の西側ウィングへ向かう。時雨さんは、文芸書コーナーにいるはずだ。
乱れなく整然と配された書架が、今はどうしようもなく邪魔なものとして存在する。一列、一列、左右を確認しながら進んでいく。両脇の学習机や簡易椅子に座った人間も忘れず見る。
最後の列の西側、窓脇の椅子。そこに時雨さんはいた。思わず一歩引いて、書架の間から観察してしまう。窓枠に右肘をのせ、軽く頬杖をついている。足は穏やかに組み、その上に本を乗せて、静かにページに目を落としている。集中しているようだ。黒い髪が、西日でオレンジ色に発光している。綺麗だった。
音を立てずに近づき、彼の足元に膝をつく。
「時雨さん、」
ごく小さな声で話しかけた。
つ、と本に落ちていた視線が俺の顔を舐めた。その涼しい眼が、くっと細くなる。中性的な顔がふと、男性の色気をおびる。甘川によく似た顔。あいつを男にしたらこんな感じだろうか。
左手で、そっと俺の頭を撫でる。
「……変な髪の色」
……まったく。それが最初に言う事かな。葉月が染めたんです、だなんて、しなくてもいい説明というか弁解を挟むことになった。葉月が、という余計な言葉。
彼は、伸びをして小さくあくびをした。
「いい図書館だ。専門書は大学の方がいいだろうが、ここは文芸書の揃いがいい。ここも有効活用しろよ」
彼は俺の顔をまじまじと見て、小さくふきだして笑った。
「……なんだよ、しおらしい顔しやがって」
「会いたかったんです。だって、この前、時雨さんはすぐ帰った」
「馬鹿。こんな公共施設で愛の囁きなんか聞きたくねぇって」
冗談でかわす時雨さんは、本を閉じると椅子から立ち上がった。膝立ちしていた俺の腕を引っ張り上げて立たせる。
時雨さんは、ふらふらと書架の間を歩きながら、気まぐれに見える手振りで本を選び取ると、俺に渡してきた。カウンターで貸し出し手続きを済ませる。7冊。
「貸し出し期間は14日間です。延滞の場合は……」カウンターの伏目がちな女性が、規則を機械的に説明する。
駐車場に向かいながら「コレと、コレと、……コレっと」と、俺に本を三冊を渡す。
「坊やはコレを読みなさい。面白い作品です」
「昔みたいですね」
時雨さんは俺と葉月の教育係みたいなものだったから、こうしてかつては本や参考書を押し付けてきたものだった。
「夏生はまだまだお子様だ。いくらでも俺から学べるぜ?」
そうして乱暴に俺の頭をぐしゃぐしゃにする。この本を貸してくれるということは、二週間以内にもう一回会える。嬉しくなった。
「さて、ご自宅までドライブしましょうか、夏生お坊ちゃま」
時雨さんは、遠隔操作キーで車のロックを外し、俺を助手席に座らせてくれる。本を後部座席に放り込んで、時雨さんは運転席に着く。キーを回してエンジンを入れる。が、ギアはパーキングのままで出発しない。
「……夏生くん。交通法規は知ってるよね?」
「はぁ。原付免許持ってますので」
「とぼけるんじゃないよ。シートベルトしなさい」
「……時雨さんがつけてよ」
ハッと息を吐いて、呆れたようにハンドルに上半身をもたれさせる時雨さん。
「お前な、」
「捕まったら困るのは時雨さんですよ」
「馬鹿か。自分で付けろ。さもなくば降りろ」
顎をしゃくって、乱暴に腕を外に向けて振る。上品な顔立ちなのに、中年じみた仕草も平気でする。
「……嫌です。降りません」
「わーったよ! 白鷹の御曹司」
時雨さんの言う「馬鹿」はとても好きだ。優しくて、温かい。彼は、助手席の左後ろのシートベルトの先端に手を伸ばそうと体を持ってくる。時雨さんの顔がすぐ傍にある。
俺はそこを逃さなかった。
唇が僅かに離れた時、彼は掠れた声で呟いた。むしろ、囁きに近かった。
「……誘導したな」
「分かってたくせに」
「生意気だぞ。年下の癖に」
「こういうことを教えてくれたのは時雨さんですよ」
生意気だと責める時雨さんは、大きな手で俺の頬を壊れ物のように触れ、そしてまた、重ねた。
「夏生、」
俺を呼ぶ愛しい声が、閉じたまぶたの上に、優しく降って来る。このままこの人をどこまでも引き摺りおろしてやりたかった。俺は、もう二度と上がってこれなくてもいいから。




