若き夏生の悩み
時雨さんは、無機質で生活感のない俺のベッドに座って、俺の帰りを待ち構えていたように思えた。
「なんで……」
助けを求めるようにあたりを見渡したけど、この部屋には、この人と自分しかいない。
どこかにはいるはずの兄だって、一切の物音をたてない。この男と二人きり、世界に取り残されたような静けさだ。腹の底がこわばる気がした。
だから俺は、苦し紛れにまた言った。
「……なんでだよ」
今更。と続けたかったのを、すんでのところで飲み込んだ。
時雨さんは、ははっ、と乾いた声で笑った。それに合わせて、心臓がどくんと脈打つ。
「どうした、首絞めた鶏みたいな声出して。幽霊でも見たような顔してるぞ」
「だってほんとに幽霊でも見ている気分だ」
なんだよそれ、と苦笑しながら時雨さんは立ち上がる。俺は、気付かれないほど小さく後退する。
「葉月は俺に飛びついて喜んだぜ。お前は、久しぶりに叔父に会えたってのに、嬉しくないのか」
叔父といっても、そう歳も変わらない青年だ。
改まったようにからかってくれて、憎らしいじゃないか。
「葉月があなたにしがみつくはずない。だって葉月はあなたのこと嫌いだ」
半分は自分に言い聞かせていた。葉月は時雨が嫌い、だということを。その逆は、天地がひっくり返ってもありえないから。
「まったく、可愛げがないな」
時雨さんはまだ笑っていた。
とたん、悔しくなる。
バカ正直に冗談に答えることなどなかったんだ。冗談だと解っていながらまじめに答えたのだから、自分が悪いけれど。
彼と本気になって向き合っても、いいように丸め込まれてしまう。まっすぐ刺さった視線を引き離したい。彼に背を向ける。両手の力をやっと抜いて、買い物袋を降ろした。手は震えていた。荷物が重かったわけではない。緊張なのか、怒りなのか、不安なのか。のた打ち回る言いようのない感情のせいで、体が思い通りに動かない。
「夏生、」
もう一度、時雨さんは俺の名を呼んだ。さっきの射すくめるような感覚はもう無い。どういう表情しているかはその声で想像がつく。
俺は彼を許してない。
何事もなかったかのように現れた時雨さんに、期待通りの反応をしてはいけないんだ。
自制しろ。
自分の弱さも、バカさ加減も、嫌と言うほど知っている。憎いと思っていても、顔を見れば簡単に赦してしまうことも。
時雨さんの、小さくもらしたため息が聞こえる。諦めるような。俺もまた、小さく息を零した。
そんな俺の脇に、彼はすっと体を通した。俺はぎくりと硬直する。
「買い物してきたのか。めずらしいな」
時雨さんの目的物は、俺の買い物袋だった。
断りも無く紙袋を検めようとする。彼が体を移動させるたび、自分の肩がびくりと跳ね上がった。時雨さんは、何も気付いていないふりをしてそばに立つ。
「ああ、いい靴じゃないか。お前の買い物にしては上出来だ。いつも葉月のお下がりを着てる夏生がなあ。進歩したもんだ」
彼は、買ったばかりの靴を片手に持ってくるくると全体を眺め見る。
「……返してください。クローゼットに仕舞います」
「おいおい、そう急くな。せっかくだから、今着てみろよ」
時雨さんは、シャツを押し当ててくる。カッとなって手を払おうとしたら、肩透かしを食らう。
「冗談だって」
時雨さんは少し退いて笑っていた。彼はシャツのタグを見て呟く。
「三日月、ねえ。ロマンチックな名前だな」
黒字に銀の糸で店名と月が描かれている。俺はそれに気が付かなかった。タグもおそらく敬之さんのデザインだろう。
「ひょっとして、好みの男だったのか」
急なその言葉に、とっさの切り返しが出来なかった。図らずも目が反応し、大きく見開いたはずだ。時雨さんは、そういう反応を見逃さない。
「あたりだな」
でも、言ってることや解釈はトンチンカンだ。バカなのか、あなたは。
彼はシャツをクローゼットのノブに引っ掛けた。
「そうでもなければ、お前が服を買うなんて珍事が起こるはずもない」
「違います。俺はそういうこと考えていません」
「そういうこと? ……はっきり言えよ」
彼はもう笑っていなかった。
「だから……、好みだとか、どうとか。そんなことで買ったんじゃありません、俺は」
時雨さんは何も言わない。俺の言葉をまだ待っている。だから少し早口になる。
「……少し、自分を変える気になった、それだけです」時雨さんはまだ何も言わない。弁解しているように聞こえるのは承知で、続けて言う。「それに、その人は友人の兄です。だから、なんでもないんです」
「自分を変える。……ふうん」
時雨さんが興味をもったのは、言い訳じゃなくて、自分を変える、ということのほうだった。でも、深い意味があったんじゃない。
そんなことより、と続けたくても、続ける勇気が無い。俺はうつむいて手を弄んだ。
時雨さんはベッドから立ち上がり、微笑む。
「べつに根掘り葉掘り聞き出したいわけじゃない。お前はすぐ深刻になる。なにを怯えているんだよ」
「……俺は葉月じゃないから。冗談のセンスなんてないんです」
自分で葉月、兄の名を出しておきながら、兄のことを話題にしたくはなかった。
でもさ。
あの兄の靴はいったい? 何があった?
「……葉月はどこ?」
時雨さんの目から逃げるように、廊下へのドアを開けた。
「あいつは出てったけど」
何の裏もない言い方だった。興味がなさそうというか。
「でも靴があった」
「靴なんて、俺が知るか。別の靴でも履いて出たんだろ」
今ここにいないのか。その事実に、いろんな思いが寄せては消えた。
自分が来る前に、二人は何か揉めたのだろうか。時雨さんと、兄の葉月は、よく軽口を叩き合う仲だった。葉月のほうが、本気で怒って時雨にくってかかることもよくあった。
うまく納得できないでいたが、時雨さんは伸びをしながら部屋を出て行く。
「さて、俺は用が済んだから帰りますっと」
「用? 何もしてないじゃないか」
「したよ。お前たちに会えた」
お前たち、と俺は小さく口にする。
「お茶も飲まないの、」
「いらん」
不意に時雨さんは立ち止まり、こちらを振り返って頭に手を伸ばしてきた。
「……お前たちを放っておいて悪かった」
俺の好きな、優しい目の色になって彼は言う。
バカだな、おれは。もう赦してしまっている。
「悪いと思うんなら、態度で示してくれよ……!」
目を見ては言えなかった。ふっと笑った気配だけが伝わってくる。
「桜、頭にくっつけてるぞ」
時雨さんは、俺の頭に軽く触れ、桜の花弁をつまんで見せてくれた。
桜のせいで、言いたい我儘を飲み込むしかなかった。穏やかになった彼の眼を見上げ、ありがとうをやっとのことで言う。
すっ、と彼は出て行った。
何の前触れも無く現れて、帰る時はこちらの虚を突いて帰る。いつも狐につままれたような感覚を味わわされた。飄々としていてつかみどころがない。
リビングに戻ると、札束が入った分厚い封筒が置いてあった。
「用って、これかよ」
その夜遅く、床についてどれぐらい経ったときだったか。
酔っ払った葉月の声と、宥める様な、知らない男の声が聞こえてきた。葉月が帰ってきたようだ。
だが、その後すぐに眠りに落ちてしまい、翌朝起き出した時にはもう、リビングに葉月一人がいるだけだった。