三日月商店と陽気な青年 その3
店先まで、兄さんは見送ってくださいます。ナツキちゃんに買い物袋を手渡したあと、瞳ちゃんに話しかけます。
「お人形のような可愛い君。君のような子が店に来てくれるなら、婦人服を仕入れないこともない」
そう言って華やかな笑顔を見せます。大輪の花のごとく。そんなところは、私の母に少し似ていると思っています。瞳ちゃんは、もじもじして、「私、森栖さんのデザインのものが着たいですぅ~」と、ぬかしやがります。
「考えておこうじゃないか」と返事をする彼は、どことなく上から目線なのが清々しいです。兄さんって人は、人間を「服を着せる物体」ぐらいにしか思ってないんじゃなかろうか。
なにしろ、今まで彼が付き合ってきた女性たちは皆、スタイルがいい上にお洒落さんでした。ところが、長くお付き合いが続いたところは見たことがありません。それでも、こんなに陽気な人です、彼のすべてに悪気は無いんだと思います。
「またよろしくね」そう言って、いつまでも店先で手をぶんぶん振っていました。子どものように元気に大きく。我々が角を曲がるまで、ずっと見守っていてくれました。
角を曲がってしばらくしたところで、瞳ちゃんは急に「ププッ」と笑い出しました。すると、声を出してナツキちゃんも笑い出しました。二人は、顔を見合わせて、また笑いました。作り笑い上級者で、地では不機嫌面の瞳ちゃんが、デフォルト無表情なナツキちゃんが、ケラケラ、口をあけて笑っています。
「え、えっ? どうしたんですか、二人とも。僕、何かしましたか?」
彼らはさらに体をそらして笑います。
なんだか、……なんだかなぁ。こそばゆい。だって、二人の本物の笑顔を見ちゃったような気がします。
「俺、あんな芝居がかった話し方する人はじめて会った」
「いかにもユズルの親族って感じ! ……あたしも、あんなお兄ちゃんが欲しかったなあ」
イトコですけどね……、って訂正しなくてもいいですよね。ほんとうに兄みたいな存在です。
笑ってるけど、いい人だとわかってもらえたみたいで私もうれしくなりました。
「姫草って、一人っ子っぽそう。わがままだもん」
「偏見でしょ。……まあ、たしかに一人っ子だけど」
「全国の一人っ子の名誉が守りたいんなら、いい子にしてなさいね、瞳ちゃん」
「何ソレ……変態に言われたくないんですけど」
言えてる、と笑ったナツキちゃん、君だって、世間で言う変態なんじゃないだろうか、なんて、瞳ちゃんは思ったとさ。
女が女を好きになろうが、男が男を好きになろうが、そんなことは、恋ってものの素晴らしさを考えたら、取るに足らない問題のはずです。ですから、男性を恋愛対象とするナツキちゃんだって、私を好きになる可能性は0じゃないと思うんです。なんて、石畳を踏みしめながら考えていました。
「あ、そういえば瞳ちゃん、今日、ナツキちゃんのお洒落向上に全然役に立ってなかったね」
「余計なこと言わないの!」彼女は私の耳を引っ張りました。……非常に痛い。
ナツキちゃんは、私の悲鳴に振り向いて、幼い姉妹をなだめる様な笑い方をしました。
「何やってんだよ。早く行こう」
オレンジの陽を浴びて、その髪の毛も同じ色に光っていました。彼が両手に下げているダークグリーンの三日月商店の紙袋も、私たちをあやすようにゆらゆら揺れているのでした。
左耳はジンジンしてたけど、ナツキちゃんは、すごく、綺麗だったのです。
そして今晩も、夏生ちゃんは今なにしてるんだろう。笑っているといいな、そう思いながら、私は眠りにつくことでしょう。
笑顔を見れた、今日という日を幸せに思い返しながら。
◇
甘川と姫草と別れて、俺はホッとする反面、よくわからない明るい気持ちで満たされていた。
甘川の従兄の、警戒心なんて無意味だと思える底なしの元気さには、ひどく勇気付けられた。
だからこそ、普段は言わない「ただいま」を、誰に言うでもなく、この言葉を発してしまう。
そこで、違和感に気づく。
マンションの玄関ドアを開けた先には、2足の靴が乱暴に脱ぎ捨ててあった。
一方は兄のものだ。
もう1足は誰か、兄のオトモダチのものだろう。急いで脱いだような散らかりが生々しかった。
自分の帰りがわりかし遅かったから、連れ込んだのだろうか。それとも、はなから招き入れるつもりだったのか。まあ、それはどちらでもいいんだ。
自分としては、お互いの事情には不干渉のつもりだった。兄がどんな交友(恋愛)関係をもとうと関係ないし、好きにしてくれていい。
ただ、このように連れがいる場合、夜遅くまで帰ってこないはずなのにと、すこし、気が滅入った。久しぶりに晴れた気分が、こんなにすぐに静まって欲しくはなかった。
すばやく玄関の散らかりを直してから、自分の靴を脱ぐ。
さらに一歩踏み出せば、スリッパの乱れが目に入る。遠くに蹴飛ばされた右足のスリッパを、歩きながら履いてまっすぐ自分の部屋へむかう。
彼らに気づかれないよう、極力音を立てずに歩く。客人と顔を合わせるのはゴメンだ。
それにしても家中がしんとしている。何をしているのか、考えたくはないけれど考えて行動するしかない。気を遣うのはいつだって、兄ではなくて俺のほうだ。
ドアも静かに開けるようにしている。カチャ、と小さな金属音だけがする。開いた隙間に、そっと体を滑り込ませる。
「夏生」
自室には、先客がいた。
その人が自分の名前を呼んでいる。
音を立ててはいけない。
自分に課したことを忘れて、かばんを派手に落とした。
仕方がない。ひどく驚いたのだから。
「……時雨さん、」
絶望的な声だった。縋るようでもあった。
華やいだ気分のかすかな名残は、急速に姿を消していった。
代わりに、毒花のようなどろどろとした気分が覆い尽くす。