蔭州事件の証言と当時の報道
蔭州事件とは、桟根自治政府で起きた神華人の虐殺事件である。
○生存者の証言
張春誠大尉夫人
『警務隊が反乱したので在留神華人は駐屯基地などに集まって避難しているうち19日の午前2時頃駐屯軍と交戦していた部隊が幾つかに分れて蔭州城や駐屯基地の前に殺到して来て十分置きに機関銃と小銃を射ち込んできました。蔭州城の前は神華人の死体が山のように転がっています。子供を抱えた母が二人とも死んでいるなど二目と見られないような惨状でした。私達はこの時家に居まして、19日午前1時半頃、警務隊の将校が家に来たので洋服に着替えようとしたところ、その将校がいきなり主人に向かって拳銃を一発撃ち主人は胸を押さえて「やられた!」と叫ぶなりその場に倒れました。私は気づかれない内に5歳の娘を抱え台所の方へ逃げ、床下に隠れました。そしたら将校はそこらにあるものを片っ端から取って表へ戻っていきました。私たちは朝になるまで隠れていましたが、大きな悲鳴とともに神華人は皆殺しにしてやるという声が聞こえ、いよいよ危険が迫ったので庭を通って裏路地を渡っていき垣山頂上の地下壕に忍び込みました。そこには命辛々逃げ延びた親子が数人と警官が一人おりまして、私たちは次の日の午後になるまで息を潜めながら救援を待ちました。主人を殺した将校は毎日家に遊びに来て「桟神友好、桟神友好」などと言い、非常に主人と仲良しだったのにこんなことになるとは、猛恥人ほど信用ならない恐ろしい民族はないでしょう。』
○神華軍将校の東洋国際軍事裁判における証言
恵克敏少佐
恵克敏少佐:岸本駐屯歩兵第四連隊小隊長。6月20日午後2時、蔭州に到着し、掃討開始。
『まず駐屯隊の西門を出ますと殆んど乱雑に居留民男女の惨殺死体が横たわっているのを目撃し一同瞋恚の極に達しました。敵兵は逃げ遅れた数人しか見当たりませんでしたので夜半まで専ら生存者の収容に当たりました。「神華人は居ないか」と連呼しながら各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦、内臓が周囲に散乱している死体等が壕の内、塀の蔭等から次々這い出して来ました。ある飲食店内には一家全員首と両手を切断惨殺されて居るのを目撃しました。婦人という婦人は十四五歳以上は全て強姦されておりまして、全く見るに忍びませんでした。
かくして一応の掃討を終了したのは夜の十時過ぎであったと思います。それまでに私の掃討担当地域内で目撃した惨殺死体は約百名で収容しました。重軽傷者は約三十名と記憶しております。これらの死傷者の中には発狂している者も若干ありほとんどが虚ろな状態でありました。』
○当時の報道
皇京新聞(1937年8月2日付号外)
『嗚呼何という暴虐悽惨。鬼畜も及ばぬ残虐極まる暴行により、多くの邦人が虐殺された。我が光輝ある神華民族史上未だかつてこれほどの侮辱を与えられたことがあるだろうか。悪虐桟根兵の獣の如き暴虐は到底最後まで聴くに堪えない。政府は今すぐに野蛮猛恥亜を打ち滅ぼすべきであろう。(中略)恨みの六月十九日を忘れるな。』
ローデニア人記者
当時兎領モルチャイア諸国を取材していたローデニア人ジャーナリスト フレドリック・ヴィンゲント・ウィリアムは1930年5月にBehind the News in SangKongを刊行し以下のように報道している。
『神華人は友人であるかのように警護者のフリをしていた桟根兵による蔭州の神華人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを通して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1929年6月19日の深夜から始まり、そして長時間続いた。神華人の男性、女性、子供たちは野獣のような桟根兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はその兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられたのだ。その大半が手足を切断され、神華軍が彼等を発見したときには、殆どの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていて、水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえたというが、それは桟根兵が強姦し、意味のない拷問をかけていたからだ。』