ニートのたかしと時々母ちゃん
やあ
薄暗い部屋の中には、いつものようにゲームをするたかしがいた。カーテンによって日光が完全に遮断され、あたり一面にはエナジードリンクやカップラーメンのごみが散乱している部屋の中で一心不乱にパソコンとにらめっこをしている彼の姿は、まるでゾンビそのものだった。最後にお風呂に入ったのがいつかも覚えておらず、髪の毛は油でギトギト、肌も荒れ放題であった。
「ふざけんなよ!今のどう見ても当たってんだろ!」
たかしがゲームをする時に発する怒声は彼の両親や、近隣の住民の頭を悩ませていた。
そんな彼も今年で三十歳になる。いつまでも働かずに歳を重ねるばかりのたかしに、彼の両親は頭を悩ませていた。たかしに少しでも働く意欲を出してもらうために、母親はご飯を乗せたお盆の横に「ゆっくりでいいから働く準備をしてちょうだい」と書かれたメモ用紙を置いていた。
たかしが異変に気が付いたのは、いつもならとっくに昼食を完食しているであろう一時半を回った時だった。
「あのババア昼寝でもしてんのか?」
たかしはそう呟きながら仕方なくゲームを中断し、一階のリビングへと降りて行った。リビングに到着した時、彼は一つの置手紙があることに気が付いた。
「たかしへ、お父さんが交通事故で病院に運ばれたのでお母さんも病院に行きます。お昼ご飯は冷蔵庫にある冷凍食品とお米を温めて食べてください。」
間違いなく母親の字だった。たかしはしょうがなく冷蔵庫にある冷凍食品とお米を温めて、キッチンで食べた。「自分の部屋以外の場所でご飯を食べるのは久しぶりだな。」そんなことを考えながらも彼は温めたご飯を食べ進めた。父親の状態はまだわからないが、もし「命にかかわるような事故だったら」そう考えると、たかしは自分が働くことになってしまうのではないかと思い、温めたご飯の味を楽しむ余裕もなかった。昼食を食べ終わった彼は、再び自分の部屋でゲームを始めた。しかし、ゲームをしている彼はどこか上の空だった。
母親が帰ってきたのは五時を過ぎたころだった。彼女の目元は赤くはれており、涙を流したのが見てわかる。
「たかしも病院に来なさい」
彼女の声が狭い玄関に響く。たかしは父親の死を覚悟した。急いで荷物をまとめ、タクシーに乗り込む。タクシーの窓を開けると、夏だというのに冷たい風が吹き込んできた。病院に到着して、たかし達は父親がいる病室に向かった。たかしが病室のドアを開けて最初に目にしたのは、父親がいつもの厳しい姿からは想像もできないような姿でベッドに横たわっている父親の姿だった。体には何本もの管がつながれており、顔は事故でできたであろうあざで直視できるものではなかった。変わり果てた姿の父親を前に、たかしは声が出せなかった。
「お医者様が言うには、お父さん、もうダメみたい。大型トラックに横からぶつかられたみたい。最後にたかしと話せると、お父さんもきっと喜ぶわ。」
かすれた声しか出なかった。たかしは父親の手を握った。そして、その冷たさに驚いた。
「今までごめん、なんも親孝行できなかった。」
やっとの思いで出した言葉には、たかしの後悔が詰まっていた。すると、父親はたかしの手を握り返してきた。その直後、ベッドの横についている機械から、父親の心臓が止まったことを告げられた。慌ててその場にいた医師が心臓マッサージを施す。しかし、無情にも父親の心拍数は0のままだった。
帰宅したときには、二人の目は真っ赤にはれ上がっていた。母親は靴を脱いですぐに自室に戻ろうとするたかしを呼び止めた。
「話があるから来なさい。」
こんなに真剣な母親の声を聞いたのはいつぶりだろうか。リビングに行くと、彼女は話を切り出した。
「たかし、お願いだから働いてちょうだい。お父さんが死んじゃって、家のお金も苦しいの。お母さんもパートをたくさん入れるようにするけど、それだけじゃ無理なの。」
たかしもうすうす気が付いていた。三十歳になっても働こうとせずにゲームばかりしているままじゃダメだと。とっくに気が付いていた。けれど変われなかった。いくら働こうと決意しようが、ゲームしないように努力しようが、時間がたてばまたゲームの前にいた。今しかチャンスはない。
「わかった、俺働くよ。」
「ありがとうね。お母さんも頑張るからね。」母の眼には涙がうっすらと浮かんでいた。
その後たかしは部屋に戻り、ありとあらゆる求人サイトをチェックして、自分でも入社できるところがないかを探した。しかし、大学を卒業して約十年間も引きこもっていたたかしが入社できる企業なんてあるはずがなかった。次にたかしはアルバイトの求人を探した。うれしいことに、アルバイトの求人ならたかしでも応募できるものがいくつかあった。
彼の口元に笑みがこぼれた。今の彼にはアルバイトの求人があるだけで幸せだった。早速応募しようとキーボードをたたく彼の手は、いつもより弾んでいた。面接の日程を翌日に決めた後、彼は布団に入った。
次の日、彼は身だしなみを整えるために、長らく入っていなかった風呂に入り、少ないお金で美容院に行った。家を出る前に、母親はたかしに声をかけた。
「今日の面接頑張ってね。」
彼女の顔にはあふれんばかりの笑顔があった。
身だしなみを整えてすっきりした彼は、張り切って面接するコンビニへと向かった。真夏の太陽が彼の体を照らし付ける。なれないスーツを着たこともあり、彼の体は汗ばんでいた。長い間引きこもっていた自分が面接に受かるのか、そんなことを考えながら、コンビニの自動ドアをくぐる。ひんやりした店内の空気が心地よかった。
彼を迎えてくれたのは中年の優しそうなおじさんだった。奥の部屋に通され、いよいよ面接が始まろうとしていた。これから社会復帰の第一歩を踏むことへの期待感や面接に落ちる可能性への不安が、彼の心の中を駆け巡る。持ってきた履歴書を面接官に見せた。とたん、今まではにこにこしていた面接官の顔がけわしくなった。たかしは冷や汗をかいているのを感じた。今までの気持ちが一変、面接に落ちることへの不安が一気に大きくなった。
「君、大学中退してるんだ。」
「はい…」
「中退した後の十年近くは何かやっていたの?」
「いえ、自宅でゲームをやっていました。」
「そうなんだ、なんでうちに応募したの?」
「父が死んでしまって、母だけじゃ家計が回らなかったので応募しました。」
その後もしばらく質問が続いた。たかしは生きた心地がしなかった。
「わかった、今日はもうこれでおわりだよ。」
面接官が最後にはなった一言で、彼の体は緊張から解放された。
「ありがとうございました。」
部屋を出たたかしは悔しさで唇を噛んだ。唇から血がにじみ出てくる。空を見上げてみると、先程まではあたり一面青空だったが、今は分厚く、黒い雲が空を覆っていた。家に帰る彼の足取りは重かった。心のどこかではわかっているはずだった。十年間引きこもり続けて、面接でそのことについて問われるのを。しかし、ただ面接をするという決意をしたことは、引きこもっていた事の重大さを忘れさせることはたやすかった。
「母ちゃんになんて説明すればいいんだ。」
震える声でそう呟いた彼の頭に、大粒の雨が降り注いだ。雨は一瞬で勢いを増し、雷も鳴り響いた。雨に濡れながら、たかしはなんとか家にたどり着いた。ずぶ濡れのたかしを見て、母親は暖かい声で話しかけた。
「お風呂わいてるわよ。」
たかしはあふれそうな涙をぐっとこらえ、浴槽へと向かった。湯船につかって体を流す、そんなことすらままならないほどに、たかしの心身は疲れ果てていた。風呂を上がった彼を待っていたのは、面接について質問する母親ではなく、温かいご飯をテーブルに並べている母親の姿だった。父親が死んでからは自分の部屋ではなく、母親と一緒にご飯を食べていた彼だったが、今日ばかりは母親と一緒にご飯を食べる気分ではなかった。たかしは背中を丸めて自室に戻った。母親はそんな彼を見て、何も言わずにご飯をお盆に乗せて、たかしの部屋の前に置いた。そんなことも知らずに、たかしは部屋で布団にくるまっていた。少し自信があった分、面接が落ちそうな現状が、とても恐ろしかった。ご飯を食べる気力すら湧かずに、たかしはそのまま眠りについてしまった。
たかしが目を覚ましたのは、母親もとっくに寝静まった夜中の三時だった。電気がついたままの部屋で目をこするたかし。部屋のドアを開けてみるとラップで包まれたご飯があった。たかしは冷めたご飯を部屋の中に運び、食べ始めた。冷たいご飯をほおばっていると、今まで我慢してきた涙が一斉にあふれ出してきた。自分の情けなさがはっきりとわかった。ご飯を食べ終わったたかしは食器を洗い、再び眠りについた。面接の結果が知らされるまで、たかしは焦りで胸がいっぱいだった。今回の面接で落ちていたら次はどこの面接を受けるか。そこでも同じように引きこもっていたせいで面接がスムーズに進まなかったら。そう考えだすとキリがなかった。そんなたかしを、母親は何も言わずに見守っていた。
時間はあっという間に過ぎ、たかしのスマホに一件のメールが届いた。面接を受けたコンビニからだった。面接の結果は予想通り不採用だった。しかし、たかしはそれでもめげなかった。不採用がわかったと同時に、たかしはまた新たなアルバイトに応募した。しかし、当然結果は不採用だった。それでもまた面接に応募し、落ちては応募することを繰り返した。すべては今まで迷惑をかけてきた母親に少しでも楽をしてもらうために。そのおかげか、母親は今までとは違うたかしの姿を見て安心していた。
最初の面接を受けた日から、一か月が過ぎようとしていた日のこと。一つの清掃会社から採用のメールがたかしのスマホに届いた。
たかしは思わず飛び跳ねた。一通り喜んだ後に、彼は母親にそのことを伝えに行った。
「母ちゃん、俺、採用してもらった!」
「よかったわね!たかしが頑張ってた姿、お母さんもずっと見てたわ。ようやく結果が出たね。」
涙を流しながら抱き合う二人。そこには、美しい夕日の光が一筋、差し込んでいた。
ひん