71.魔法少女、食卓を共に
人間というものは、わからない。
それはスティアの記憶がないという事実によるものでもあれば、同じような生き物であるのにもかかわらず、その在り方は個人によって異なるからだということでもある。
だが、自分の質問がアンジェリカを傷付けてしまったことぐらいは、スティアもまた理解していた。
そこにある断絶は埋めがたいものなのかもしれない。
もしかすれば、アンジェリカとスティアはわかり合うことなどできない存在なのかもしれない。
そんな不安が心の中で鎌首をもたげるのを感じながらも、スティアは結衣に連れられる形で、食堂に向かっていた。
今日の配給に合成揚げパンの姿はなく、代わりに缶飯シリーズの中でもとりわけ人気が高い鳥飯の争奪戦が起こっている状況を俯瞰しながらも、無意識にスティアの右手は結衣が着ている軍服の裾を掴む。
それは、不安によるものなのか。
それとも、恐れによるものなのか。
幼い頃からの体験が形作る感情とその基準が、スティアの中からは欠落していて、その答えはわからずじまいだ。
だが、ただ一ついえることがあるとするのならそれは、自分はアンジェリカと喧嘩をすることを、仲違いをすることを望んでいないということだけだった。
アンジェリカがスティアをどう思っているのかはわからなくとも、少なくともスティアの方からすれば、アンジェリカに対しては、好意と呼べるようなものを抱いている。
その理由は単純なもので、結衣と仲がいいから──結衣がアンジェリカと楽しそうな時間を過ごしているのを見ることが好きだから、という一言に尽きた。
スティアの感性は、幼い子供のそれに限りなく近い。
子供というのは、無垢故に世界の広がりと奥行きを知らない存在であり、そういう意味で、彼女の世界は「小日向結衣」という個人を通すことで完結してしまっている。
その良し悪しはともかくとしても、まだスティアが幼子のような存在であるということは、アンジェリカもまた理解していることだった。
結衣は配給品の鳥飯を二つ取って、一つをスティアに手渡すと、味噌汁と合成肉で作られた生姜焼きをプレートに乗せて、一足先に食堂へ到着していたらしいアンジェリカの向かいにある椅子を引く。
「相席、大丈夫?」
「構いませんわ」
「ありがとう、アンジェリカ。スティアも」
「……わかった……スティアは、ここに座る……」
心の奥底に踏み込まれた怒りがそう簡単に治まってくれるものではないと理解しつつも、結衣とスティアはあくまで平常心を装って合成魚肉のムニエルを口にしているアンジェリカへと、申し訳なさそうに視線を向ける。
以前に結衣は合成魚肉の食感と匂いが苦手だとアンジェリカに語っていたが、彼女からすれば合成肉のそれが苦手なのかもしれない。
こんな些細なことにも、細やかな違いがあるのが人類なのだ。
スティアは考えれば考えるほどに、人間という存在がなんなのか、自分という存在がなんなのかがわからなくなって、その内希薄化していくかのような錯覚に、ぞくりと背筋を震わせる。
こみ上げてきたそれはあくまでも直感的な予想でしかないものの、自分が自分でなくなったら、「スティア」という名前と結衣との思い出まで失ってしまえばどうなるのかなど、考えたくもないことだ。
そう考えれば、アンジェリカにとって電話をしていた誰かとの会話のあとに涙を零していたのは、自分にとってのそれと同じことなのだろう。
ようやく理解が及んだスティアは、アンジェリカへと律儀にぺこり、と頭を下げる。
「ごめんなさい、アンジェリカ……スティアは、反省している……」
「昼間のことですの? でしたらわたくしも言いすぎましたわね、申し訳ありませんわ」
ここで意固地になって売り言葉に買い言葉を重ねないことは、間違いなくアンジェリカの美徳だといえた。
呆気ないほど簡単に降りてきた許しに対して、結衣とスティアは困惑に目を見開いて、左右で色が違うアンジェリカの瞳を思わず覗き込んでしまう。
そこにあるのは、ある種の高貴さとでも呼ぶべきものであって、家の端くれであったとしてもノブリス・オブリージュを、西園寺の名に恥じない振る舞いを叩き込まれてきたアンジェリカの、いわばルーティンのようなものでもあった。
青みがかかった金髪を掻き上げながら合成紅茶を啜る姿はどこか宗教画めいた厳かさを湛えていて、生まれの違いというものを、格の違いというものを結衣は見せつけられた気分になって、圧倒される。
高貴。高潔。
それこそが西園寺の家に求められる絶対条件であり、結衣たちの心配を他所に、アンジェリカとしてはむしろ、昼間に取り乱したことを恥だと思っている節さえあったのだ。
「えっと……私からもごめん。スティアがあんなこと言って」
「ですから、気にしていないと申し上げておりますのに……まあいいですわ、わたくしといたしましても、取り乱したことは淑女として恥ずべき振る舞い。お二方には申し訳ないことをいたしましたわ」
ごめんあそばせ、とアンジェリカも丁寧に頭を下げて結衣たちへの謝罪の言葉を口にするが、正直にいってしまうのであればこの問題はほとんど十対零で結衣たちが悪い。
それにもかかわらず、相手を許し、そして憎むのではなく、自分の非については謝罪をするという度量を持つ少女が、アンジェリカという存在なのだ。
ガスバーナーで温めた缶飯の蓋を、火傷をしないように注意深く開封しながら、結衣は彼女が見せる度量に再び敬服するばかりだった。
反面、それがアンジェリカの許容範囲を超えていたのであれば容赦はしないということではあるのだが、結衣は常に最悪を考えて動く人間だ。
そうでなくとも、踏み入られたくない部分にずけずけと足を踏み入れてしまったという非は、間違いなく自分たちにあるのだから。
寛大なアンジェリカの判決に感謝の意味を込めて、もう一度頭を下げると、結衣たちは食卓を共にする。
そこに少なからず気まずさやぎこちなさは残っていたものの、概ねわだかまりは解けたといったところだろう。
合成魚肉の独特な食感や臭みをオイルに漬けたり香辛料をぶちまけることでなんとか取り除こうとした苦労が偲ばれる産物を、アンジェリカは優雅に口元へと運ぶ。
結衣が合成肉を好むように、アンジェリカは合成魚肉を好む。
二人の間にはそんな些細な違いがあって、そして抱えている価値観はもっと異なるものだとしても、人間というものは、許し合うこともできれば、同じ食卓を囲むこともできる。
スティアにはなんだか、それが一つの神秘であるかのように感じられてならなかった。
「……スティア?」
「不思議……スティアは、感心している……」
「感心、ですの?」
ぼんやりと宙を見上げながら呟くスティアの言葉に、アンジェリカは小首を傾げておうむ返しにその言葉を口に出す。
「うん、スティアはそれを肯定する……人は、色んな違いがある。色んな事情がある。でも、おんなじ食卓を共にできる……スティアは、それがとても素敵だと感じている」
「詩的ですのね、ですが、その通りではありますわ」
「詩的……? スティアには、わからない……」
「どうであれ、例え理想が違っていても、考えが異なっていても背中を預けて戦える。同じ食卓を囲むことができる。それは確かに、人間の本質ではありますわ」
アンジェリカはとうとうと語る。
例えそこに至るまでどれだけの憎しみと悲しみを重ね、足元にどれだけの屍を積み上げてきたのだとしても、人というのはただ、愚かさだけを繰り返す生き物ではないと、そう信じている純粋さが、彼女の舌先から言葉を紡ぎ出していた。
人類は確かに、愚かな歴史を重ね、繰り返してきた、愚かな生き物なのかもしれない。
だが、それでも歴史は前に進んできた。
歩みは止まることなく、時と共に地球を一つ屋根の下とするまでには、手を取り合うことができるようになった。
少なくともそれだけは事実であり真実だと、アンジェリカが語る通りに、結衣もまた、その歩みを、前に、未来に向けて積み重ねられた歴史を信じていたいと強く感じる。
「……それに、いつ敵星体が襲ってくるかわからないのに、身内同士でいがみ合っていられませんもの。貴女たちにも非はあった。わたくしにも非はあった。だからこれで、手打ちにいたしましょう」
ムニエルを綺麗に食べ終えたアンジェリカは、ナプキンで口元を拭い、備え付けられていたおしぼりで手を入念に拭いてから、結衣とスティアへと手を差し伸べる。
「そうだね……ありがとう、アンジェリカ」
「スティアも……アンジェリカに、感謝する」
全くもってその通りだと、ぐうの音も出ない正論に苦笑を浮かべることしか結衣にはできなかったものの、同じように身嗜みを整えて、結衣とスティアも、差し伸べられた手を握り返すのだった。