3. 魔法少女、謎の少女と言葉を交わす
結衣のために用意された一戸建ての住宅は、官僚の子息であるとか高官のそれ、あるいは政治家の、とにもかくにも上流階級でなければ与えられないほどのものだった。
あの忌まわしき「赫星一号」が飛来するまでは、東京という土地でなければ比較的質素な部類に入るような住宅であっても、今やそれも特権階級に割り当てられるものにカテゴライズされるほど、人類は疲弊している。
それにもかかわらず、連邦軍の上層部は軍備拡張にその予算の大半を割いているのには、感情的な批判こそ浮かんできても、ある種仕方ないと容認せざるを得ない事情があったからだ。
人類は未だ、地球という星の国土、その三割しか奪還できていない。
確かに結衣は「原初の七人」の中でも最強の魔法少女として、「赫星一号」の破砕に成功しているが、その破片の大半は大気圏で燃え尽きることなく地球へと降り注ぎ、甚大な被害をもたらした──わけではなかった。
元々死に体だった地球の大地に、およそ人口と呼べるような人口は残されていなかったからだ。
荒野と化した東京に、北京に、モスクワに、ロンドンに、ニューヨークに……「赫星一号」の破片は降り注ぎ、突き刺さったが、当時の人々が暮らしていた、そして今も下層階級の市民が暮らしている地下都市に被害が及ぶことはなかったのは、不幸中の幸いだったといえよう。
諏訪部から受け取っていた鍵を鍵穴に差し込んで、結衣はきょとんと首を傾げているスティアを、開いた玄関の中に手招く。
「どうぞ、何があるかわからない部屋だけど」
「わからない……? 結衣、このお家の人なのに、わからない……? スティアは、それがわからない……」
「今日引っ越してきたばかりなのよ」
スティアの受け答えは、年の頃が自分と変わらないのにもかかわらず、やや感性に幼いところがあるな、と感じるのが結衣の正直なところだった。
とはいえ相手は記憶の大半を失っているのだ。
一概に記憶喪失といっても、あらゆるものを失うのか部分的に失うのか、脳機能的なものまで失うのかで大分事情が異なってくるとは、医療班で勤務していたかつての回復担当の魔法少女が口にしていたことだったが、結衣にとってその理解は曖昧なものでしかない。
ただ何となく、スティアは自分の名前と生活に必要な機能以外の全てを失っているのだろう、ということだけを辛うじて察しているだけだ。
本来であれば尚更、彼女は連邦軍に突き出すべきなのだろうが、それを勝手に拾ってきて自分の家に招いているというのが、どういうことであるかぐらいは、いかに除隊した身分であるとはいえ、自分にもわかっている。
不思議そうに小首を傾げるスティアが、壁を指先でなぞると、そこからさらさらと光る粒子が零れ落ちていくような錯覚を、結衣は感じていた。
「帰る家……お家……不思議、スティアは、あたたかい……」
「そう、気に入ってくれて何よりよ」
軍から支給されたものだけどね、と付け加えると、当然のように家具が取り揃えられているリビングルームに足を踏み入れて、結衣はスーツケースを三人がけのソファへと放り投げる。
このご時世、誰が住むのを想定していたのかと問いかけたくなるほど、支給された邸宅は結衣一人にとっては広すぎて、スティアを招き入れたのは結果として正解ではなかったのかと、思わずそう信じたくなってしまうほどに、広い空間に一人で放り出されるというのは孤独なことだった。
軍を事実上クビになった理由はわからない。
ソファの左側に放り投げたスーツケースの隣に腰掛けて、結衣は目頭を覆いながら天井を仰ぐ。
事実上、初めて触れるものだからかスティアは家の中に配置されている支給品の家具を興味津々といった様子で観察していて、なんだか小動物を拾ってきたみたいだな、とそれを横目に見ながら、他人事のように結衣は考える。
事実上クビになったことに対して、怒りであるとか悲しみであるとか、あるいは困惑であるとか、そういった感情が自分の内から湧き起こってこないことは、不思議なものだった。
奇妙なほどに心の内は凪いでいて、スーツケース1個分しかない私物をどうしたものかと考えている自分の薄情さに、結衣はどこか他人事めいた驚きを感じていた。
だが、かといって軍に残りたかったかと問われれば、その答えが否であることもまた確かだ。
3年前の「赫星戦役」以降、前線を退いた結衣のお仕事は専ら、無数のケーブルに繋がれて装置の中で魔力を放出し続けるということだけだった。
それは穴を掘って埋め戻す作業のようなもので、役目があるだけマシだといわれても、未だ残党のように地球での活動が確認されている敵星体との戦いに駆り出されるよりは遥かに良いといわれても、退屈がもたらす苦痛は拭い難い。
犠牲は十分に払われたはずだった。
資本主義がもたらす汚濁と腐敗に塗れながらも、内宇宙にまで手を伸ばし、とうとう最後のフロンティアとして残された外宇宙へと人類が進出しようとしていた最中に現れたのがあの「赫星一号」であり、その道中にある文明の火を全て踏み消してきたのがその、恐怖の象徴たる彗星だ。
テラフォーミングが施された火星と、そこに駐留する太陽系軌道防衛艦隊は僅か一週間も経たず敵星体に蹂躙されて、しばらく留まった火星を拠点として地球への敵星体派遣を行ってきたのが、「赫星一号」の所業だった。
そこには声明も何もない。
意図もわからないまま、理由もわからないままに人類は突如として侵略を始めた敵性生命体……かどうかも不明であるそれらに対抗すべく、地球という星が悲鳴を上げた結果生まれたのが、結衣たちのような「魔法少女」と呼ばれる存在なのだ。
地獄という言葉すら生温い地球上での戦いと、そして遺された者たちだけによる特攻作戦にも等しい地球圏絶対防衛線へと侵攻してきた「赫星一号」の突破作戦。
それら全てを括るのに、地獄では足りず、奈落では浅く、生き残ってしまった結衣に刻まれた心の傷、その深さは計り知れない。
だからこそ、無垢に振る舞うスティアの姿には、3年前に失ってしまった妹が、芽衣がオーバーラップするようで、癒しと同時に傷口が腐っていくような感覚を、結衣に与えていた。
「結衣……泣いてる? スティアは、何か……結衣に悪いこと、した?」
「……泣いてる? そっか、私、泣いてたんだ」
「泣いてるの、結衣はわからない……?」
「鈍くなっちゃったんだよ」
涙なんて、とっくに涸れたと思っていたから。
スティアの無垢な言葉に返した結衣の声音は震えていて、まだ自分にも流せる涙が残っていたのだなあというどこか実感を伴わない感慨と、そして今になって瘡蓋の下から這い出してくる過去の犠牲が、結衣の両眼から色のない、透明な血液を滴らせる。
「……結衣、何があったの? スティアにはわからない……でも、スティアは……結衣に拾われたから……結衣に、オンガエシ? をしてあげたい」
「……ありがとう、スティア」
会ったばかりで、名前しか知らないような相手に話すようなことでもないような話なのは、結衣にもよくわかっている。
カウンセラーには幾度も話してきたことで、その度に答えが出ることもなく、医療班から支給された精神安定剤で誤魔化して前線に立ち続けてきたのが小日向結衣という魔法少女だった。
世間に喧伝されるような、屈強な英雄などでは断じてない。最後まで絶望の中でも誇りを失わずに戦い続けたなど、真っ赤な嘘だ。
それは、軍の上層部に口酸っぱく言われたように、墓の下まで持っていき、永遠に黙っていなければいけなかったことなのかもしれない。
「……あのね、スティア」
そのはずなのに、結衣の唇はどうしてか言葉を先走らせ、舌先は孤独に耐えかねたかのように、過去を紡ぎ出していくのだった。