100.「魔法少女、クビになりました」(終)
結衣が現実世界へと帰還したのは、八枚羽の女神が討ち滅ぼされてから五日後のことだった。
突然、旧試製呪術回路が安置されていた場所に結衣が現れたことで、既に空の棺を送り出してしまった軍部は騒然としていたものの、その帰還自体は概ね喜びと共に迎えられたといってもいい。
しかし、メタモルバーンを使ったことで本来は燃え尽きるはずだった僅かな魂の残滓しか持たない結衣の肉体は廃人同然に衰弱し、自力では立って歩くことも難しいほどに弱り切っていた。
しばらく「ラボラトリィ」での集中治療を受けることで容態は安定したものの、それでも衰弱した身体が元に戻ることはない。
目は霞み、車椅子に乗せられた状態で、絵理に介助される形で、結衣は諏訪部の待つ司令室に足を踏み入れていた。
「君が帰ってきた時は驚かされたよ、小日向結衣」
「……葬儀、終わってたんですよね」
「ああ……まあ、今は色々あっててんやわんやしてるが、それも上層部のやることだ。おれにはもう関係なくてね」
「……関係ない、ですか?」
「後日、伍長に降格の上、僻地への異動……それが敵を抱えていたことと越権行為に対する処罰ってわけだ。君たちが世界を救ってくれたおかげで、銃殺は免れたがね」
諏訪部は冗談めかして肩を竦める。
処分自体の内容は妥当なのかそうでないのかはわからないが、少なくとも彼が銃殺にはならなかったことに安堵して、結衣は小さくほっ、と息をついた。
そして、自分が病み上がりなのにもかかわらず呼び出されているのは、諏訪部に大佐としての、マジカル・ユニットの指揮官としての最後の仕事が残されていたからなのだろう。
「まあ、なんだ……小日向結衣、並びに水瀬絵理。君たちも軍籍抹消という処分が下される形になった。世界を救った英雄に対しては申し訳ない限りだが、軍の事情なんでね」
世界を救った功績と、スティアという敵の本体とでも呼ぶべき存在を抱え込んできたことに対する罰。それらを天秤にかけて、なるべく穏当に済ませようとしたのが、この結果であることはなんとなく推察できた。
「帰る家はおれの最後の権限で用意してある。君と……スティアが住んでいた家だ」
「……ありがとうございます、大佐」
「なに……おれの力だけじゃない。誰だって、本音で言えば英雄をぞんざいに扱いたくはないものなのさ」
軍部内の立場でいえば権力を行使できるどころか、落ち目もいいところだった彼がそれだけのことをできたのにも、軍部の中に結衣や絵理、生き残った、たった二人の魔法少女に対して少なからず敬意を払ってくれる人間がいたからだというのは、恐らく真実なのだろう。
それでも、罰せられるべきことは罰せられる。
その結果として二人の軍籍が剥奪されるというのは、穏当なものだといえるのだろう。
──しかし。
「また、クビになっちゃいましたね」
「はは……こいつは手厳しいな。だがまあ、そうだ……もう、本当に戦う必要なんてなくなるんだ。君たちがこんなところにいる理由もないだろう」
あれから、新たに敵星体反応が確認されたという話もなければ、八枚羽の女神は3年前とは異なり、キリエライト・ノヴァによって跡形となく消し飛んでいたため、その破片が地球に落着したということもない。
つまり、人類は今度こそ、勝利を、平和をその手に収めたのだ。
それでも、きっと全てが丸く収まるわけではない。
3年前と同じように上流階級と下層市民の間には対立の火種が燻っているだけでなく、焦土となった地上に再び文明の火を灯すのにも、また時間を要することだろう。
こうして王子様とお姫様は結ばれて、いつまでも仲睦まじく暮らしました、で終わる話は現実に存在しないとは、きっと誰もがわかっている。
それでも、敵星体の恐怖から人類が解き放たれたというのは、大いなる前進といっても過言ではないだろう。
そんな考えを抱くと共に、結衣の車椅子を押しながら、絵理はぺこりと諏訪部に頭を下げて、司令室を後にする。
「……世界、平和に……なったんでしょうか……」
「……どうだろう。正直わかんないや」
無我夢中だった。
戦っていた時も、スティアと束の間の再開を果たした時も、結衣の頭の中は世界のことよりも自分のことばかりで埋め尽くされていて、そこに考えを巡らせる余裕など、どこにもなかったのだ。
だが、人間というのは得てしてそういう生き物である。
1000年先に残すべき未来のことを憂い、考えられる人間も中にはいるのかもしれない。
だが、誰もが明日をもしれない世界の中で必死に足掻き、もがき続けているのが実情だ。
それは軍人であっても民間人であっても、魔法少女であっても変わらず、それでも明日が来るようにと必死に願いながら日々を送ってきたのが、結衣にとっては昨日までの──絵理たちにとっては数日前までの世界の在り方だった。
晴れてそこから解き放たれて、今日からは在りし日の日常が帰ってきますといわれても、物事というのは単純ではない。
平和の中でもきっと、明日をもしれない生き方を選ばざるを得ない人々は大勢いて、そこにはいくつもの悲しみや苦しみが横たわっていることだろう。
──だが。
結衣は深呼吸をすると、霞んだ目で窓の外に覗く青空を仰ぎ見る。
輪郭がぼやけて景色のほとんどはよく見えなくても、その青は、どこまでも晴れ渡る蒼穹は、こんなにも鮮やかに、朽ち行くのを待つこの身体にも映し出せる。
「私、きっと長くないと思うんだ」
「……っ、結衣さん……」
「絵理が魔法をかけてくれたのは、気を失ってる時でもなんとなくわかったけど……やっぱり、魂がもう底をついてるみたいなんだ」
自分の現状を振り返ってみれば、生き残ったところで報われるようなものではない、悲惨なものだということが改めてよくわかると、結衣は苦笑した。
前代未聞の、高次元からの帰還を果たしたこともきっと無関係ではないのだろう。
それでも、自分は。
「……それでも、私は生きるよ、絵理」
「結衣さん……」
「……スティアが生きたかった明日を、スティアが私にくれた明日を……この世界を生きて、確かめてみたいんだ」
この命が尽きる、その瞬間まで。
それがわがままであると理解していながらも、結衣は一人の少女として、「魔法少女」の宿命から解き放たれた年相応の笑顔を、満面に浮かべてみせる。
上手く笑えなかったのは、昨日までのこと。
だから、今日からは笑って生きようと、結衣はそう決意する。
どんな最期が待っていようと、どれほど余命が残されているかわからなくとも。
「わかりました……その、わたしも……あの……お手伝いしても、いいですか……?」
絵理は結衣の微笑みからその心を悟ったのか、眦に涙を滲ませながらも覚悟を決めたように、その巡礼へ、結衣が最期に向かうための旅路の供を願い出た。
「……ありがとう。私、一人じゃ歩けないから」
「ううん、いいんです……わたしにとって、結衣さんが生きていてくれたことが……何よりも、幸せですから……」
「あはは、そっか……ありがとう、絵理」
「……わたしも、ありがとうございます、結衣さん……」
また、明日。
来るかどうかもわからない時間に曖昧な約束を結んで、二人はその方角へと歩き出していく。
誰かが生きたいと願った明日である今日を目一杯に生き抜いて、そうして訪れるかどうかもわからない明日が今日になったその時は、同じように、精一杯の時間を生きて。
人生とはその繰り返しなのかもしれないが、結衣はもう、そこに虚しさを感じることはない。
「そうだよね、スティア……また、明日」
天国なんて、あるのかどうかわからない。
地獄のような世界ではあったけれど、ここは地獄そのものではない。
だから、その先で会えるのかどうかもわからない。
それでも、いつか、春の梢で。
また明日、という約束を、信じることを明かりにして、魔法少女ではなく、ただの、小日向結衣という一人の少女は、明日への道を歩んでゆくのだった。
この物語もここで完結となります。読んでいただき、ありがとうございます。