ケンちゃん、お相撲さんを目指す(6)
次回でお相撲編終了です。次はお菊ちゃんが大暴れします。
ケンちゃんの両足の薬指を美波さんが摘まんだ。ケンちゃんは、腹ばいで畳に伏している。
中腰の美波さんが、ぐいと薬指を引っ張ると、ケンちゃんの口から、悲鳴を飲み込んだ呻きが漏れた。
(うぅ~~~~)
分かる。それ痛いでしょ。私も初めてこの施術を受けたときは、思わず(何しやがんねん!)って叫びそうになった程だから。だって、その頃は知らなかったもん。美波さんがとんでもなく凄い人だって。
“ぐいっ、ぐいっ“と美波さんの力加減が波を打つように変化している。その都度、ケンちゃんが漏らすくぐもった声も変化する。
(ずっ、ずず、ず~~)
美波さんが関連した信じられない光景は、これまで何度も見たが、またまたそれは驚きの光景だった。両脚の薬指2本だけを引っ張り、ケンちゃんの巨体を、美波さんが引きずったのだ。ちょっとだけ体がずれたってレベルじゃない。今もずるずるとケンちゃんの体が畳の上を滑っている。
「ぐわぁぁ~~~」
痛みに耐え切れず、ついにそんな悲鳴がケンちゃんの口から迸った。
「我慢!」
短く、小さく、されど強く、美波さんが一喝する。
(ううっ~)と小さく息を漏らし続けているケンちゃんの体は、一定の速さで今も畳の上を移動している。道場の真ん中で2人は取っ組み合ってたはずだが、今や壁までそれ程の距離がない。と、突然に手を放した美波さんが、私に言葉をかけた。
「ちょっとお菊ちゃんも、やってみます?」
へっ、やるって何をですか?
「お菊ちゃんも、浅川君を引きずってみましょう」
“引きずってみましょう”ってそんな。でも(止めときます)なんてことを、美波さんに言える力関係ではない。仕方なく私はケンちゃんの足の側に立ち、左右の薬指を摘まむ。
うわっ、汗でびちょびちょ。ケンちゃんには少し申し訳ないけど、後でしっかり手を洗おう。
「さすがに薬指だけでは無理でしょうから、中指も一緒に摘まみましょうか」
言われた通り、中指と薬指、左右で合計4本の指を摘まんで、まずは“ぐいっ”と引っ張ってみる。特にケンちゃんは痛がる素振りを見せない。もう少し力を込めてみようかしら。うっ、重たい。そりゃ当然だ。100キロある床に伏した男性を、女の力で引きずり回すことのできる方が異常なのだ。
私がケンちゃんを引きずることを諦めたその時、美波さんから声が掛かった。
「力任せでは動きません。意識です。ヘソの下の重心を落とすイメージで膝を曲げて下さい」
重心を落とすイメージ。下崩しのイメージですかね。こんな感じかな。私は膝を深く曲げる。
スカートを履いているので、少し恰好としてはみっともない。
「体の軸は真っすぐに保って下さい。脳天からお尻の穴にかけて、一本の鋼の棒が地面に向けて垂直に通っているという意識です」
体の軸、一本の棒。何となくですが、イメージはこんな感じでしょうか。
「はい、それでは、自分がベルトコンベアになったつもりで、浅川君を運びましょうか。とても高性能でパワフルなベルトコンベアです」
ベルトコンベアになったつもりって、そんな物になろうと思ったことも、なりたいと思った事もありまへんがな。鋼鉄のロボットとかゴムの肉体を持つヒーローとかの方が、まだイメージしやすいです。
「ベルトコンベアです。ベルトコンベアになって引っ張ってみましょうか」
う~~ん、やるだけやってみますが。意識を落とす。鉄の棒一本、私はパワフルなコンベアと・・・それ~~~。
(ズ、ズズゥー)
マジか、動いた!100キロのケンちゃんが。動かされたケンちゃんもびっくりだろう。
「はい、お菊ちゃんはそのまま引っ張り続けて下さい」
(ズズッ、ズ~~)
動く。びっくりだ。もちろん軽い訳はないが、それでもケンちゃんの巨体を、私はいま引っ張り続けている。いつまでやるの、これ?ちょっと楽しいけど。
「次は浅川君の番です。フェラーリかヒラタクワガタになったつもりで、床に張り付いて下さい。フェラーリが道路に張り付いて走るように、ヒラタクワガタが木の幹にしがみ付いてびくともしないようにです」
いや、その比喩はどうなのだろう。たぶんケンちゃんはフェラーリなんて乗ったことがないだろうし、自分はヒラタクワガタになりたいと考えたもないでしょう。ヒラタクワガタって分る?ケンちゃん、都会の子だし。おや?
少しずつずるずると動いていたケンちゃんの体が、何だか急に重くなった。そしてすぐにまるで動かなくなった。私が疲れたとかじゃない。本当に重くなって、動かなくなったのだ。
「これが意識の力、イメージの力です」
道着が開けて、黒いティーシャツを露わにした美波さんが、きっぱりと言い切った。
「それでは仕上げに掛かりましょうか」
美波さんがケンちゃんの脇に立つ。そして左手の掌を、ケンちゃんの背中の中央にあてがう。
姿勢は中腰。体の軸がはっきりしている。私がケンちゃんを引きずった時の姿勢と、よく似ている。
その時、美波さんの肩が僅かに震えた気がした。動作としては極めて小さな動き。
(ボリ、ボリッ、ボリボリッ)
ケンちゃんの背中が重たい異音を発し、それにケンちゃんの声にならない悲鳴が重なった。




