ケンちゃん、お相撲さんを目指す(5)
昨日釣り場でいいことがありました。
いつか短編でご紹介できればと思います。
だから大阪が好き!
10回以上も二人の体がぶつかり合った。都度畳に転がるのは例外なくケンちゃんの方だった。
それでも組合ってからケンちゃんが畳に崩れるまでの時間が、少しずつ長くなっている。そして遂に・・・
「おっ、おお・・・」
今日初めて聴く美波さんの力み声。
ケンちゃんが美波さんを押し込んだのだ。当然のようで信じられない光景。押し込んだその距離は1メートル半か、それ以上か。もし畳に土俵が描かれていたなら、美波さんの体は土俵際いっぱいかも知れない。
が、ここでケンちゃんの前進が止まる。いまケンちゃんの表情は正に鬼の形相だ。それでも小さく細い美波さんを押し切れない。一体どんな技術を美波さんは使っているのか。見た目は単純な押し合いに見えるだけに、余計に不思議だ。
すでにケンちゃんは汗だく。ポタポタとあごから汗が滴っている。息も荒い。
一方で美波さんは・・・あっ。
美波さんの表情も、押し合いが始まった頃の涼しさがない。薄くではあるが、額に汗が滲んでいる。
「ぐぅ~~~」
ケンちゃんが足を前に進めようとする。体重差に任せてこのまま美波さんの体を押し切るつもりなのだろう。しかし、それでも押し切れない。最初に数歩うしろに下がった美波さんであったが、いまは地に足が打ち付けられているかのように、その場から下がらない。
「ぐっ、ぐぅ~~」
ケンちゃんの顔に苦悶が浮かぶ。二人とも姿勢は低いが、さらにケンちゃんの頭の位置が下がっていく。またもや膝が折れそうになっているのだ。下方向に相手を崩す技。柔気道では“下崩し”と呼ばれる技だ。これを美波さんは仕掛けているのだろう。いま。
「がぁ~~」
このとき、ケンちゃんの口から奇声が漏れた。私達3人以外誰もいない広い道場一杯に響くほどの声量だった。押し切るのを諦めたケンちゃんが、美波さんの肩越しから帯を取ったのだ。
柔気道で呼ぶところの“帯取り腰投げ”。柔道では何という呼び名なのか分からない。
帯を取って相手を自分の腰に乗せて投げる技だ。しかし、美波さんの体が少しも床から上がらない。
ケンちゃんは本気だ。全力で美波さんを投げようとしている。それでも美波さんの体勢がまるで崩れない。大地に根を張っている大木のようだ。いや、大木ではない。だって細いのだから。
柔道着の袖から出ているケンちゃんの二の腕が張りつめている。美波さんの帯に掛かっているのは太い左手の指が3本。その位置も人をぶん投げるには理想的な位置だ。なんで分かるかっていうと、私も牧野さんにこの技で日頃投げられているからだ。
その音をなんて表現すればいいのだろう。混ぜこぜにして単純に言葉にすれば、“ブチン!”ってところだろう。でも厳密には、その“ブチン”の前に、絹の繊維が少しずつ張力に負けてちぎれていく“バチバチ”という音を聞いたのだ。“ブチン”の直前、“ブブッ”って感じの下品なオナラのような音も聞こえた。
それらの音が混じり合い、時間で平滑化され、結果として“ブチン”となったのだ。
どさりとケンちゃんが前のめりに倒れた。腰投げがすっぽ抜けた感じだ。と、その時、美波さんの足元にバサリと何かが落ちた。帯だ。美波さん愛用の絹製の黒帯だ。えっ、帯が切れた?
かなり使い込まれていた帯とは言え、帯って切れるものなの?どんだけの怪力なんだ、ケンちゃん。いや、それ以上に、そんな怪力に対しても、まるで体勢を崩さなかった美波さんってどういうこと?もし交差点で乗用車と衝突しても、車の方が飛んでいくんじゃないかしら?マジで。
「あっ、すいません」
美波さんの帯を引き千切ったケンちゃんが謝罪するが、うつ伏せ状態のケンちゃんが立ち上がれない。呼吸のたび激しく背中が上下している。相当に体力を消耗しているようだ。
「まあ、これくらいでいいでしょう。そのままうつ伏せで足を伸ばして下さい」
千切れて床に落ちた帯も気にせず、やや額に汗を滲ませた美波さんが言った。
柔心会の本部道場ど真ん中で、ケンちゃんの背を伸ばす施術が始まった。




