ケンちゃん、お相撲さんを目指す(4)
昨日釣り場で少し嫌なことがありました。慰めて下さい。感想とか頂戴できると元気がでます。
「好きに掛かってきなさいな」
(あの柔心会の芝山先生ですか?)
此処までの道中、ケンちゃんはそんな言葉を口にした。つまり、柔心会主席師範芝山美波とは何たるかを、ある意味では私なんかより遥かに理解しているのだろう。
そんな人物に、(好きに掛かってきなさい)と促されても、そうそう動けるものではないのだろう。顔を紅くしているケンちゃんは、その場に立ち尽くしたままだ。
「あれ、どうした?ああ、お相撲さんになるんだから、相撲の方がいいかしら?」
いまも動けないケンちゃんを、美波さんが促す。でも、相撲たって、倍半分くらい体重差があるぞ。相撲ルールの方が、ケンちゃんもやりづらいのでは?
そんなことを私が考えた時、美波さんの体勢が沈んだ。両手を畳に付いた。まさにお相撲さんが、立会いの時に取るあの姿勢。ケンちゃんの準備、おもに心の準備を待ちもせず、トンって感じで、美波さんがケンちゃんの胸にぶつかっていった。
さすがにこれには両足を前後に広げて受け止めたケンちゃんだが・・・って、ケンちゃんがぶっ飛ばされた。いや、ぶっ飛んだのではない。その場に座り込むように崩れて、大きな背中を畳に付いたのだ。
そんなことってあり得るの?美波さんの体当たりは、それほどの勢いじゃなかった。軽く突っかかって行ったって感じのものだったはずだ。
「コラ、こんなか細い女の体当たりで何をしている。もっと腹を据えなさい」
結構な迫力の美波さんの叱咤。美人であるが故に、逆に美波さんの叱咤には迫力がある。
ケンちゃんが立ち上がる。また姿勢を低くする美波さん。そしてぶつかる。さっきよりは少し勢いがあった。“ドンッ”って感じで二人の体が重なり合う。
(ぐぅっ)
そんな声が漏れた。ケンちゃんの口からだ。ケンちゃんの膝が落ちていく。床の方向に。
(ウッ、ぐぅ~~)
さらに激しい息がケンちゃんの口から洩れた時には、ストンとケンちゃんの両膝が畳に落ちていた。
「ほら~何やってるかなぁ。その程度の気合でお相撲さんになるつもり?」
二度目の厳しい美波さんの言葉には、さすがにケンちゃんの眼が光を宿した。
両脚をさらに広げたケンちゃんに、三度美波さんが踏み込んでいく。
二度目の体当たりの倍以上の迫力で、2人の胸と胸がぶつかった。ぶつかって止まった。
(ぐぅ~~)
またもケンちゃんの口から重たい息が漏れたが、今度は膝が崩れたりはしなかった。
しばしの硬直状態。とても不思議な硬直だ。決してケンちゃんが力を抜いているようには見えない。もちろん全力って訳ではなさそうだが、崩れそうになる体をどうにか保持しているって感じ。一方で、美波さんはそれ程の力を入れている様子はない。それでも体勢を崩されそうになっているのは、美波さんの倍も体重のあるケンちゃんの方なのだ。その理屈が私には分からない。すなわち、そんなバカげた事を起こせるのが芝山美波ということなのだろう。
突然はらりと体の向きを変えた美波さんの体捌きに、ケンちゃんの体が前方に泳ぐ。
“トン”と美波さんが、その泳いだケンちゃんの臀部を軽く片手で押すと、あっさりとケンちゃんが床に手を付いた。お相撲で言えば、“只今の決まり手は突き落とし”ってことになるのだろうか。
「浅川君でしたっけ、意識が高か過ぎます。だからこの程度のいなしで体が泳ぐんです」
意識が高い?それって志が高いとか、目標が高いとか、誉め言葉の意味じゃないですよね?
「重心は決して高くありません。相手を押す体勢としては適切な低さです。でも意識が付いてないが故に、体が軽いんです」
う~~ん、私なんかにゃ、美波さんのコメントの意味する処がよく分らん。
「体と意識の有り様が一致して、初めて人は100%の力を発揮できます」
美波さんの言葉をケンちゃんは背中で聞いている。両手を畳に付いたまま、立ち上がってこない。もちろん全力のぶつかり合いではないとは言え、相手は柔心会主席師範とは言え、体重が自分の半分ほどの女性に、こうも翻弄されれば、それは相当のショックだろう。
ケンちゃんの背中が小刻みに震えている。えっ、ケンちゃん、泣いちゃった?
そんな、落ち込む必要はないですよ。この美波さんが普通じゃないだけです。化け物か妖怪レベルなんです。この人。
「・・・すごい・・・こんな細い体で・・・」
うつ伏せのケンちゃんが、小さく声を漏らした。
スクと立ち上がったケンちゃんの眼が、きらきらと力強く輝いている。
「ほう、やっとその気になったか。では、もう少し続けましょうか」
眼を輝かせたケンちゃんと美波さんの組合いは、こうしてさらに熱の入った乱取りへと突入したのだった。




