ケンちゃん、お相撲さんを目指す(3)
次の章を書き始めています。
『西宮カップ』編です。
お菊ちゃんが他流試合に臨みます。
自分でも楽しみです。
本部道場の入り口付近に、すでに美波さんは立っていた。白い道着姿。時刻は9時45分。
約束の時間15分前に道場に到着した私達なのだが、美波さんはすでに準備万端整って感じで、私たちを待っていてくれたのだ。
私の横で、ケンちゃんの緊張が一気に膨らむのが分かった。私と挨拶した時よりも遥かに低く頭を下げるケンちゃん。その時間も長かった。
美波さんがしなやかな歩調でこちらに歩いてくる。人はここまで緊張してしまうことがあるのかってほど、ケンちゃんの緊張が、私の横で高まっていく。
「お会いできて光栄です。浅川健太と申します。この度はお世話になります」
「うん、おはよう。芝山です」
深く頭を下げているケンちゃんとは対照的に、小さく口角を上げて美波さんは言った。
「そのバッグの中は?」
「はい、柔道着です」
ケンちゃんの声が、オクターブレベルで上ずっている。改めて美波さんってすごい人なんだなって感じる。
「よろしい。それじゃあ、早速着替えてきなさいな」
美波さんが更衣室の方向を指差した。
着替え終えて更衣室から出てきたケンちゃんの柔道着姿は、なかなかに凛々しかった。凛々しかったが、何だか少し違和感がある。その違和感の正体は・・・あっ!
何故だか分からないが、ケンちゃんは帯を締めていなかったのだ。それで道着の前が開けているのだ。
「あれ、帯はどうしたの?」
美波さんの質問は至極当然のものだ。
「いえ、黒帯しか持ってなくて。柔心会の道場にお邪魔するとは知らなかったもので・・・」
ああ、実際に体験入門の人が、わざわざ新しい白帯を持ってくるってのは、私も何度か観た。
どうも武道の世界では、他流の道場に黒帯を締めて現れるってのは、ちょっと相手に対して無礼に当たるらしい。その理由が私にはよく分らんけど。
でも帯がないと不便でしょ。これから運動する可能性があるのに。いや、これは説明しきれていなかった私の責任か。
「若いのに意外と考え方が古風ね。いいよ、黒を締めなさいな。それじゃあ体を動かすのもままならないでしょう」
そうでしょうとも。そんな些末なところに頓着する人ではないのだ。美波さんとは。
「それでは失礼します」
バッグから帯を取り出し、素早くこれを締めるケンちゃん。一気にその佇まいに迫力が宿る。身長165センチ、体重は約100キロってところか。デブって印象はまるで受けない。道着の下はよく鍛えられた体なのだろう。着衣が整ったケンちゃんが視線を上げる。
「何段?」
「二段です」
「よろしい。施術中はかなり痛い思いをするから、少し体を温めましょうか。多少は痛さが和らぎます」
くるりと体を翻した美波が、道場の中央付近へ向かう。やや戸惑っている感じは否めないケンちゃんであるが、美波さんに続く。さて、私は一体どうすれば。
「いきなりだけど、自由乱取りでいきましょう。ルールは任せます」
その美波さんのセリフに、またもやケンちゃんの眼がまん丸になる。
柔心会主席師範芝山美波VSかつての悪童柔道二段浅川のケンちゃん。あまりにも唐突に、その自由乱取りが始まってしまったのだ。




