不審者二人(5)
面白いキャラが生まれつつあるので、自分でも面白くなってきました。
※自画自賛
「まるで相手にして貰えなかった芝山美波が、いま目の前にいるんだから、小山氏を巻き込んだのは、どうやら効果があったらしい」
まるで悪びれる様子なく、そう言い放った高木に、美波さんの感情が膨らむ。横にいる私には、そのことがよく分かった。美波さんが怒っている。美波さんの場合、怒ると周囲の温度を逆に下げるような、静けさと冷たさを感じさせるのだ。そう、例えば、タイで白人女を無慈悲に叩きのめしたあの時のように。
その美波さんの冷たさを帯びた怒りが、私の知らない領域まで達しようとした時、絶妙のタイミングで高木が言葉を続け、この怒りをいなす。
「誤解の無いように申し上げておくと、我々が積極的に小山氏を巻き込んだんじゃない。R-ORのリングに上がることを希望されたのは、他でもない小山氏自身です」
「へぇ」
短いその相槌が氷のように冷たい。凍り付くようなその冷たさを、高木という男は平然と正面から受け止めている。相当な胆力がなければ、できない業だ。それほどに、今の美波さんは怖い。
「ご存じかどうかは知りませんが、いや、きっとご存じないでしょうが、我々R-ORの前身は、F.O.M、“For- All-Martial-Arts”というマイナーな格闘技団体です。全ての人のための格闘技。日本語に訳せば、そんなところでしょうか」
「興味がない」
「主席師範の興味は、いま問題じゃない。要は60才を超えた人間であっても、本人が望めば、戦う舞台を私たちは用意する。それが団体設立時からの、我々の自負する一貫した存在意義です」
「60を過ぎた爺さんが戦う姿を、誰が見たがると言うの?」
冷たいナイフとナイフが交錯しているかのような2人のやり取り。
私は全くバーガーを口に運べない。とてつもない恐怖に胃が痙攣してしまっている。
「普通なら、あまり需要がないでしょうね。でも、あの溝田紀子の一言が、柔心会と芝山美波の名を一気に有名にした。小山氏は柔心会の元師範で、しかも芝山美波の実父ときている。これは我々としても見過ごすには惜しいビジネスチャンスだ。嬉しい方の誤算ですよ。でっ、さらに欲深い我々は考えた。もしその芝山美波が、同じ日に同じリングに上がるとなれば・・・」
「もうその辺にしておきなさいな。私が本気で怒らないうちに」
(本気で怒らないうちに)
そう言いながら美波さんが本気で怒っている。私にはどうすればいいのか、皆目見当が付かない。アイスコーヒーで少し喉を潤した方がいいかと、グラスを持ってはみたが、ガタガタと手が震えそうになって、そのままグラスをテーブルに戻した。
「それじゃあ、主席師範に本気で怒られないうちに、少し話題を変えましょう」
飄々(ひょうひょう)と高木は、美波さんの怒りを受け流している。誰にでもできる業じゃない。
「主席師範のお友達、あの溝田紀子が、ステイシー・ロイスとの再戦を熱望している。熱望してはいるが・・・」
「やらせてあげればいいじゃない。60才の爺が戦うよりも、遥かにいいでしょう」
「ビジネスとはそんな単純な世界じゃない。この再戦は、興行側としてはあまりメリットがない」
「メリットがないとは?」
変わらず美波さんの声は固く、冷たい。それでも溝田紀子の話題になり、少なくともすぐに席を立ってしまうような状況ではなくなったようだ。いや、私が懸念していたのは、それ以上の惨劇だ。
「まずは単純に話題性の問題。高いモチベーションでこの試合に臨めるのは、リベンジを期する溝田だけ。それにファイトマネーの問題もある。再戦となるとステイシー陣営は、かなりの額を要求してくるでしょう。一度彼女は溝田に勝ってる訳ですからね。一回目の時よりも話題性に劣り、必要経費は前回以上。我々にメリットがないというのは、そんなところですよ」
「いくら?」
「おや、いくらとは?」
「だからそのステイシーとやらのファイトマネーは、いくら必要なのかと聞いている」
「それはビジネスの礼儀としてお答えできない。まあ、菊元さんがまるで口を付けていないハンバーガー1000個分と言ったところでしょうかね。それくらいは要求してくるでしょう。私の口からは、ここらで勘弁して頂きたい」
高木が私の名前を知っていることに驚いた。たぶん昇級試験のその日も、一般の見学者に交じって、この男もその場にいたのだろう。それしか考えられない。高木が私に視線を送ったのは1秒にも満たない時間であったが、それでもその眼光の怖さに、私は震えた。
「そのステイシーって娘のファイトマネー、柔心会が出す。だから紀子ちゃんとステイシーの試合を組みなさい」
美波さんは、すごく頭のいい人だと思う。そう私は信じている。そして世間知らずな一面も確かにある。しかし、その世間知らずな一面が、美波さんの魅力であったりする。一芸に秀でた人の無頓着さというか、大らかさというか、そんなところが、さらに美波さんの人間的魅力を引き立てたりしているのだ。
しかし、いまその美波さんの大らかさが危険な気がする。高木の戦術に飲み込まれはしないのか。そんな不安が、私の中で立ち上がりつつある。
この高木という男は狡猾だ。そしてとても危険だ。直感的にそう私は考えている。
「これは妙なことを仰る。いかに柔心会主席師範様と言えど、我々の興行のマッチメイクに口を挟む権利はないと思うのですが」
これは高木の言い分に理がある。
嫌な予感がする。芝山美波という誰よりも美しく泳ぎ、何よりも気高く飛ぶことのできる白鳥が、淀んだ沼の底から黒い怪魚に狙われているような恐怖。
「それに口を挟むなら、柔心会が我々に協賛する立場になるか、もう一つの選択肢・・・」
「私がその日、父とキコちゃんの立つリングに上がるか・・・」
罠だ。黒い怪魚が獲物を狙って沼の底から浮上してきた。
「主席師範が頭の良い人で助かります」
「まだ了承した訳じゃない」
(それじゃあ出る)と短絡的にならなかったことに、私は少しほっとする。いや、まだ油断はできない。
と、このタイミングで、私の目の前にあるチーズバーガーと寸分変わらぬバーガーが、高木の前に置かれた。このため一瞬だけ、会話が途切れた。
「ありがとう。美味そうだ」
似つかわしくない言葉を、女性店員に高木が掛けた。
「お約束通り、ここの代金は私の方で持ちます。その権利でって訳じゃないが、こいつを食べ終わるまでの時間くらいは、同席させて頂いて構わないですよね」
「いいよ。まだ話も済んじゃいない」
フォークとナイフを使い、細かくバーガーを刻んだ私達とは対照的に、高木は大きなバーガーを素手で掴み、これに噛みついた。高木の手の第一関節の大きさに、私は少し驚いた。




