不審者二人(3)
登場人物が一人歩きを始めると名作が生まれると言うが・・・制御不能!
満面の笑みを携えて、美波さんがダブチにかぶりついている。
満面の笑みを浮かべて、私の新しい名刺を受け取ってくれた。
「マネージャー様になると、お仕事の内容とか変わってきたりするのでしょうか?」
「やっぱり管理業務の比重が高くなってくると思います。自分がやるのでなく、人を使わなければいけない状況ってのが、これから多くなっていくかと」
最初に名刺を受け取って欲しかった人に、私は新しい名刺を渡すことができた。
私も出来る限りの笑みを浮かべてはいる。それでも引っ掛かっている。迷っている。
その小さなしこりが、私の笑みに不自然な影を落としたりしないだろうかと不安になる。
普通の人には気付かないであろう微かな影。そして、それに気付いてしまうのが美波さんなのだ。
言うまでもなく、私が引っ掛かっているのは、ほんの15分程前に会った男性の事。そして受け取った名刺を美波さんに渡すかどうかという迷いだ。
「わざわざ休日に出向いて頂かなくとも、電話でよかったのに。それに朝ごはんまで頂いちゃって、こっちが恐縮してしまいます」
無邪気と呼んでいいほどの美波さんの明るい声。私の心の引っ掛かりを、今のところ上手く隠せているようだ。
その後、柔気道の昇級審査に話題は飛んだ。あのとき私が発したおかしな奇声を多少いじられた後、技を出すときどうして声を出すのかという話になった。
「わざわざ声を出すことはないですが、呼吸方法としては、息を吐きながら技を出すのが正解です。息を吸いながらではそもそも力が出ませんし、息を止めて技を出し続けると、呼吸が乱れて、すぐに疲れてしまいます」
すなわち美波さんが言うには、息を吐きながら技を出すと、力が入ったときに、自然と声が漏れてしまうものなのだそうだ。それでも息を止めて技を出すよりは、はるかにそちらの方がいいらしい。初心者が号令に合わせて掛け声を出すのも、この息を吐きながら技を出すための訓練なのだそうだ。経験を積み、余分な力みが無くなってくると、自然と声も小さくなっていき、やがては声など不要になるとのことだった。
(ミミミ~~)だの(オイサホ~)だの奇妙な掛け声を連発し、道場内を爆笑の渦に巻き込んだ私なのだが、意外にもその奇妙な掛け声を美波さんは褒めてくれた。
「特に(ホ~)って掛け声はいいです。“イ”とか“ウ”に比べて力みません。そこが掛け声としていい理由です」
そんな呼吸の仕方や掛け声の話は10分以上におよび、私が入店してから数えると半時間近くの時が経過していた。この頃には、ある程度私の腹は固まり始めていた。
受け取るか受け取らないか、捨てるか捨てないかは、美波さんが決めることなのだ。
そして切り出す。
「実はビルの入り口で、少し年配の男性に声を掛けられました」
「はあ、そうですか。まあ、お菊ちゃんは年配の方にモテそうですからね。本部道場でもお菊ちゃんのファンが、何人か年配の方にいると聞いてますよ」
それは初めて聞いた。できれば同世代の男性にモテたいものだと思うが、いまはそんな話じゃない。
「名刺を1枚、預かってます。芝山美波に渡してくれって。要らないなら捨てて貰って構わないって」
敢えて美波さんのお父さんだと聞いた話はしなかった。そしてできるだけ平静を装った。
美波さんの口からそれを聞いた時に、(お父さんだったんですか)って、私は驚く振りをすればいいだけのことだ。
男性の名刺を手渡す。平静を装って。
この名刺を見て、美波さんがどんな反応をするのか、まるで考えなかった訳じゃない。でもその反応を予想することを、私はしなかった。
驚こうが笑おうが、怒ろうが悲しもうが、それは美波さんの問題であって、私なんかが関与すべきではないと考えたからだ。
受け取った名刺に視線を向けている時間が長かった。10秒、30秒。美波さんの表情に変化がない。僅かな笑みを浮かべて、呼吸や掛け声に関しての会話をしていたときの顔のままだ。まるで違ったのは、美波さんが沈黙してしまったこと。きょう私が整体シバヤマを訪れてから、一番長い沈黙だった。
「こちらの方は、いまどちらに?」
いつも通りと言えば、いつもと変わらない声色のように思える。明らかに違うじゃないと言われれば、そうかも知れない。美波さんの変化はそんなレベルのものだった。
「ビルの表玄関で名刺を渡されました。今もいらっしゃるかどうかは分かりません」
「その男性、他に何か話しましたか?」
自分が芝山美波の父親だと告白した後、不要なら捨ててくれればいいと、その男性は言った。
そして、その次に・・・
「今度試合に出ると言っていました。元柔心会の人間として伝えておいた方がいいと。え~と、確か・・・高木さんの所がどうこうって言っていました」
「高木・・・」
ぼそりとその名を口にした美波さんが考え込んでいる。長い時間ではなかった。すぐに立ち上がり、ハンガーに掛かっていた薄手のジャケットから財布を取り出す。タイ旅行でも使っていた赤い長財布だ。財布の中は、なにやらレシートらしきものが乱雑に入っている。それらの中から、美波さんは一枚の名刺を探り当てた。赤と青を指し色に使ったビジネスシーンで使うにはカラフル過ぎる名刺。
【R-OR 興行部 高木 振一郎】
(名刺を渡された。名前はたしか高木だった)
数週間前か、もしくは一か月以上前か、以前に聞いた美波さんの言葉を、私は思い出す。
私にとっての不審者二人が、こんな風に繋がった。




