不審者二人(2)
エンディングに向けたキーパーソン登場
【株式会社□□商事 西日本総務部 経理課 マネージャー 菊元 加奈】
真っさらな名刺10枚が、これも新調した濃紺色のヌメ革製名刺入れに入っている。
真新しい皮の匂いを嗅ぐと、なんだか新鮮な気分になり、同時に気が引き締まる。
7月1日付けの昇格なので、実際に私がこの名刺を使うのは、厳密には1週間後ということになる。何よりオフィスでのデスクワーク主体なので、人に名刺を差し出すことは、私にはそうそうないシチュエーションなのだ。
“マネージャー”の肩書がついたこの名刺を最初に手渡す人は、この世に一人しかいない。
ちょうど2年前の6月、初めて美波さんに出会った日の事を思い出しながら、山下ビルの下に到着した私の体が、その人物の存在を確認するや、一瞬で硬直した。
あの“ダブチーオジサン”が、山下ビルの前に立っていたのだ。
彼の存在に、もう少し早く気付いていたなら、私はビルに入ることを躊躇っただろう。あるいは、こっそりと裏口に回っていたかも知れない。
美波さんとの出会いを回想していた私は、お互いが手を伸ばせば握手ができてしまう程の距離に近づくまで、この男性の存在に気が付かなかったのである。
小さく眼だけで挨拶をした男性は、きっと私の硬直に気付いたことだろう。1歩程、私は後ずさりさえしていたかも知れない。そんな私の動揺を隠すには、もう時が遅すぎた。
「怪しいでしょうが、怪しい者ではありません。いや、怪しくない訳はないでしょうが、少なくとも貴方に危害を加える怪しさではありません」
ゆっくりと話すその不審者の声色には、意外にも奇妙な温もりがあった。どこか言葉の選択にもユーモアが感じられた。それなのに微かな憂いも含んでいるようであり、やはり私にとって、その人物は、いまも不審者のままだった。
「何か御用でしょうか?」
先の尖った語調に、自分でも少し驚いたが、しかし今の段階では気を許す訳にはいかない。
まずは自分の身の安全を確保すること。美波さんならそう諭すだろう。私はさらに2歩ほど、この不審者との距離を広げた。
「確か、芝山美波と一緒にテレビに出演されていた方ですよね」
体温が2℃ほど下がったような恐怖を感じた。
この男性が言っているのは、某バラエティ番組に美波さんが出演した時のことなのは明らかだ。たしかに私も少しだけテレビに映りはしたが、それは練習風景の一部って感じの登場の仕方だ。よほど特別な感情を持って画面を見ないと、まるで印象に残らないだろう。
やっぱりこの男性は危険だ。危険と考えるべきだ。
私は、もう一歩、男性との距離を広げた。
気を悪くしたかも知れないが、それはいま気にするところじゃない。
がっ、意外にも、そんな私の挙動に、男性は軽い笑みを浮かべた。嫌な笑みじゃない。爽やかささえ漂うような微笑だ。
「柔心会の関係の方ですか。さすが柔心会の門下生だ。ちゃんとリスクマネジメントが出来ていらっしゃる」
「何か、御用でしょうか?」
改めてその言葉を口にした私であるが、この男性に聞きたいことが他にあった。
(以前、どこかでお会いしましたか?)
問いたいのは正にそれなのだ。それなのだが、これが言葉にならない。今も私の眼には、この男性に対する警戒心が、たっぷりと滲んでいるのだろう。それでも危害を加えられることはないだろう。そのことについては、既に疑う余地なしと思える域にまで達している。
「そんな資格が私にあれば、直接手渡すところなんでしょうが・・・」
そう前置きをして、男性はジャケットの内ポケットから財布を引き抜いた。さらにその財布から一枚の名刺を取り出した。
差し出された名刺を、すぐには受け取らない。手の届く距離まで、極めてゆっくりと私は歩を進める。
両手で名刺を受け取るビジネスマナーは、この際無視。片手で油断なく受け取って、そしてまた少し距離を取る。その程度の事で身を守れるとは考えちゃいないが。
「申し訳ないですが、芝山美波にお渡しして頂けませんか?本人が要らないって言うなら、捨てて頂いても構いません」
今日はやたらと名刺に関わる日だ。手渡された名刺に視線を落とす。
【総合武術会館 小山塾塾長 小山 順一】
住所は奈良県○□市となっていた。頻繁にここに通うには遠すぎる処だ。小山順一氏、コヤマ?
私はこの男性に、(どこかでお会いしましたか?)という問いを、投げかけたいと思っていた。どこかで会ったような気がしてならなかったからだ。
そうじゃなかった。私はこの男性と会ってはいない。この男性に近しい人物と会っていたのだ。そうと推測して男性の顔を見れば見る程、それが確信に変わっていく
切れ長な目尻。細いあごの輪郭。そっくりじゃないか。そう、美波さんと。
「私の旧姓は芝山順一、いや、旧姓ってのはおかしいな。養子に入って芝山になって、旧姓が小山なので・・・なんと説明すればいいんでしょうか。今は旧姓に戻っているというか・・・」
ずいぶんと口下手な人のようだ。それでも言いたいことは理解できている。
「いずれにせよ、美波さんの御父上ということで、よろしいでしょうか?」
男性が驚いたような顔をする。そして答える。
「はい、私は芝山美波の父です」
予想はしていた。むしろ確信にまで至っていた。
それでも、その男性の言葉に、私は改めて驚いた。




