乙女のチャンス(4)
乙女のチャンス編完結です。ありがとうございます。
手にぶら下げたマ○ドの紙袋は、今もホクホクと温かかった。中にはダブチが4つ。そのうちの3つを、今日も美波さんは瞬く間に平らげるのだろう。嬉しそうに食べる様子が眼に浮かぶ。
4月第3週の週末。ここ数日でずいぶんと温かくなったものだと思う。それもそうだろう。もう来週には、世はゴールデンウィークに突入するのだ。
さて、私がダブチを手土産に、美波さんの店を訪ねるのには理由がある。マネージャー試験に臨むにあたり、美波さんから得たアドバイスのお陰で、結果はまだ出ていないが、自分的にも納得できる業務論文を提出し、本社選考試験に挑むことができたのだ。
その際に提出した論文の題名は、
『会社の健康ドクターとしての経理部門の在り方と自らの役割』
お金の流れを人間の血の流れに例えたこの論文は、明らかに他の受験者の論文とは一線を画していた。推薦状を人事部に出した総務部長ですら、(本当にこの論文を提出する?)と確認してきた程だ。同時に、(着眼点は確かに独創性があり面白い)ともコメントしてくれた。
「このまま提出させて下さい」
はっきりとしっかりと、その一言を口にできたとき、私の背筋はピンと伸びていた。出来栄えに自信があったという訳ではないが、自分でもなんだか得体の知れない勢いのある論文だと思った。奇抜な印象を与えるが故、賛否が分かれることは覚悟の上。何が何でも試験をパスしようなんて考えも無かった。
1人あたり15分の時間を与えられた論文発表は、直前まで足がガタガタと震えていたことが嘘のように、私の心は落ち着いていて、堂々とした振舞いができた・・・と自分で思っている。この事にも実は美波マジックが大きく関与している。
試験会場となる東京本社へ向かう試験前日の夕刻、アドバイスに対してのお礼の意味も兼ねて美波さんの店を訪ねた。
「基本動作“下崩し”を私に仕掛けてみて下さい」
“下崩し”とは、柔気道の基本挙動の一つで、相手の体勢を下方向に崩す技だ。柔気道の技の多くが、まずこの挙動から入る。この初動の良し悪しが、技が決まる決まらないの鍵を握るほど重要な挙動だ。
(なんでいま柔気道の練習?)
そうは思ったが、私は従った。
私の手首を掴んだ美波さんの肘の内側に手刀を当てがい、美波さんの体勢を崩そうとするのだが、美波さんはピクリとも動かない。さらに力を込めるが、まるで美波さんの体勢は崩れない。
「私の体を下げようとするのではなく、自分の意識を下げるつもりでやってみてください。おへその下辺りの重心を、地面に向けて真下に落とす感じです」
その美波さんの言い回しは、ほんと感覚的なものだ。理解できた訳ではないが、それでも言われるがまま、おへその下に意識を置き、意識を沈めながら手刀を切り落とす。
するとどうだろう。なんと美波さんの体勢が、(ガクッ)とあっさりと崩れたのだ。
「そう、その意識です。もし自分が緊張しているなと感じたら、今の意識を思い出して下さい。大きく鼻から息を吸って、ゆっくり口から吐く。その時、おへその重心を落とすような意識です。中枢神経がすぅ~と落ち着くと思います」
いよいよ面接官との対面が近づき、会議室のドアの前で、私はこの呼吸を3回繰り返した。
わらわらと震えていた私の膝が、これでぴったりと収まったのだ。
最後の関門であったグループ討議でも、(ホント、これ、私?)って思える程、落ち着いた振舞いと発言ができた。
グループ討議とは、10人くらいの受験者で、各々の論文を発表し、質疑・応答を行うものだ。私が振り分けられたグループの人数はちょうど10名。私が7番目の発表だった。
発表自体は、私に先だった6人と比べて、真ん中くらいの出来ってのが自己評価だった。
質疑の段階に移り、真っ先に質問を投げかけてきたのが、先の6名に対しても、相当に厳しい質問をしていた山下という営業マンだった。
(失礼ながら経理の人達は、企業のために何物かを生産しているとは思えない。経理部門が取り組むべき課題とは、効率化・省力化による人件費削減以外にないのではないか?)
彼の質問を要約するとそんな感じだった。経理部の存在そのものを否定するような言い回しに、一瞬血が頭に上りかけたが、ここでも美波さんに教えてもらった呼吸法が役に立った。
すぐに言葉を返さず、ゆっくりと2回呼吸したとき、ふとこの山下という営業マンについてのある噂を思い出したのだ。そして私は、できるだけ個人批判にならないように気を配りながら反論する。
「山下さんの営業さんとしてのご活躍は、私も耳にしています。その一方で、あまり芳しくない噂も聞いてます。もし人違いだったらごめんなさい。今年の3月末に、貯め込んだ旅費精算を一気に回してこられた山下さんですよね」
(それがどうした)
山下はそんな顔をしたように思えた。その表情が、私の言ったことが間違いではないことを肯定していた。
「私の記憶では、その金額は50万円を超えていたと思います」
「出張が続くと、なかなか経費精算みたいな雑用ができないもので」
表情だけだった山下の反応に、ここで言葉が加わった。まるで悪びれた様子は覗えない。
「その処理の担当は、私ではなかったですが、私の同僚が深夜になるまで、この経費処理に対応していました」
(だからそれがどうしたって言うの?)
山下の不服そうな顔が、そう語っていた。
その表情に、再び私の感情が膨れ上がりそうになったが、もう一度呼吸を整える。そしてゆっくりと言葉を選びながら、私は話す。
「深夜残業になったことに文句を言っているのではありません。なぜ遅くまで残業して、経理の人間が、その処理をその日のうちに終わらせなければいけないか、その理由が、山下さん、分かりますか?」
(くだらない)
はっきりと山下はそんな顔をした。そんな顔をしながら(期の締め日だからですか?)と、ぶっきら棒に答えた。
「そうです。当期の経費は当期に計上しないと、場合によっては粉飾決済ということになります。その事の意味が、山下さん、分かりますか?」
“粉飾決済”という仰々しい単語に、少しだけ山下の表情がぴくりと反応したが、それでもふてぶてしい表情は変わらなかった。
ここで、すっと手を挙げて、発言の意図を表明したのは、私以外の唯一の女性だった熊澤さんという受験者だった。彼女の発表は、2番目か3番目だったはずで、その時もこの山下との質疑応答は、かなりヒートアップしていた。
「菊元さんの言いたいことが、私には分かりました。そしてどうしてお金の流れを血の流れに例えたかも、納得しました。山下さんが停滞させた些細なお金の流れ、人間で例えれば血の流れが、早期にそれに対処しなければ、“粉飾決済”という会社としての致命的な重病に繋がりかねないということが言いたいのではないでしょうか。だとすれば、経理部を”健康ドクター”と言い表したことも、全てに合点がいきます。素晴らしい論文であることが、今さらに分かりました」
女性受験者が2人だけだったからと言う訳ではないだろうが、彼女のコメントは私の論文に好意的だった。そして予想もしていなかったこの援護射撃は、一気に私の立場を優位なものに変えた。そして最後には、あの太々しかった山下が、
(自分の考えが間違っていました)
そう自らの非を認めたのだ。しかしそこはさすがに百戦錬磨の営業さんだ。
(コンプライアンス意識の高い管理部門が存在することが、大変に心強い)
と付け加えたのだ。相手を持ち上げる事によって、彼は自らがそれ以上沈んでしまう危機を回避したのである。
この山下の一言によって、私と彼の一連の討議は、まあ痛み分けのドローだったと考えるのが妥当だろう。
午後6時ちょうどに発車予定の東京発下り新幹線に乗り込む直前、ポンッと肩を叩かれた。振り返ると、あの熊澤さんだった。そう言えは彼女の勤務地は名古屋だったはずだ。
すでに指定席を取っていた彼女らしいが、それでもわざわざ私と同じ自由席に乗り込んだ彼女は多弁だった。名古屋到着までの約100分の間、彼女はほとんど一人でしゃべっていた。
彼女の言葉の2割が、あの山下という営業マンの変わり身の速さに対する非難。そして残りの8割が、私の論文に対しての賞賛だった。
「絶対に受かってるよ、菊元さん。私の評価はトップ当選」
何度も彼女はそう私の事を持ち上げた。正直彼女の早口は、グループ討論の時以上に私を疲れさせた。
山下ビルに到着したのは午前8時10分。この時間には、まだ美波さんは朝食を取っていないだろう。すでに美波さんが起床していて、且つまだ朝食は取っていないという隙間時間を狙っての訪問だ。週末恒例のミーハー美波ファンの集いも、まだ始まっていないようだ。
(おや?)
その男性に見覚えがある。ほとんどが若い女性の美波ファンに隠れるようにしていた、以前も見かけた年配の男性だ。身長は165センチ前後。髪は総髪で白いものがたっぷりと混じっている。
私と眼が合うと、軽く微笑んでくれた。その笑みには、特に含んだものが感じられなかった。
眼が合ったから挨拶をした。それ以上でもそれ以下でもないという微かな笑みだった。
軽く私も会釈して、ビルに入ろうとした時、意外な声が掛かった。
「中身はダブルチーズバーガーですか?」
驚いた私は、エントランスで立ち止まった。




