乙女のチャンス(3)
サラリーマン(サラリーウーマン)小説です。今回は・・・
考え込んでいる私に、美波さんがヒントを与えてくれる。
「ダイエットを目的に来ている訳ですよね。ではその目的変数は一体なんでしょう?」
目的変数?言葉知らないって言ってたわりに、すごく難しい言葉使うじゃないですか。ダイエットを目標にしている生徒さんの目的変数は・・・やっぱり・・・
「体重でしょうか。あるいは体脂肪率とか・・・」
「はい。私が購入を勧めるのは、ずばり体重計です。それもタ○タのちょっといい値段のやつで、体脂肪率とかBMIとかが表示できるものであれば、さらにグッドです。体重や体脂肪率を目的変数としながら、それが測れないでは、その手段が正解なのか不正解なのか、まるで分らないですよね」
確かにその通りだと思います。家にも体重計がありますが、長らく乗っかることがありませんでした。増加傾向にある我が現実を突き付けられるのが苦痛だったのですが、最近では稽古のあと、必ず体重を測るのが習慣になりました。明らかに体重は落ちてきたし、体重以上に体つきが眼に見えて変わってきたし。
「さっきも言ったように、私には会社勤めの経験がありません。それでも会社にとって、お金とはそれなりに重要な目的変数の一つだと私は思うのですが?」
はい、とても重要です。むしろ一番重要な目的変数といっても過言ではないかも知れません。
「じゃあ、その一番重要かも知れないお金の管理をする菊元さんの仕事が、雑用だなんて考えるのはいかがなものでしょう?偉そうなことを言うようですが」
いえ、その通りです。前言を撤回します。いま背筋がピンと伸びました。寝転がってるけど。
「私はいま人間にとっての体重と、会社にとってのお金とを結び付けて考えようと思いました。でもさっき菊元さんが言ったように、お金の流れを管理するという事なら、むしろ血液と結びつけるのがいいのかも知れません」
お金と血液を結びつける?まるで意味が分からなくなってきました。少し解説をお願いします。
「つまりですね、いかに柔気道の技が優れた人でも、健康管理や体調管理ができていなければ、自分より技術的に劣る人に負けてしまうことが起こり得る。脳卒中なんかで倒れてしまっては、相手に勝つ以前の問題です。う~~ん、自分でも何を言っているのか分からなくなってきました」
はい、分かりません。ご面倒をお掛けします。それでも何かが、もう少しで心に届きそうな予感がしてきているのですが。
「血の流れは健康の要です。私は人の体に触れるだけで、その人の血流の状態を把握することができます。首回りの血流が悪い人は、貧血気味の人です。ふくらはぎの血流が良くない人は、冷え性に悩んでいる人が多いです。つまり血の流れを確認することで、その人の健康状態を、ある程度は把握することが、私にはできると言うことです」
何かが、何かがいま、私の心に響きそうになってます。それが何か・・・よく分らん。もどかしい。
「注文を取ってくる営業さんが、柔気道の投げ技とするなら、品質を守る人が、柔気道の極め技であるなら・・・そしてそれらの技術の全ては、心身の健康が維持・管理できてこそ、磨かれてより高みに達することができるのではないでしょうか」
ドン!! 届いた。心に。落ちた。私の脳天に。何が届いたかはよく分からないけど。何が落ちたかは説明できないけど。でも、要するに・・・
会社にとってお金の流れとは、人間でいうところの血の流れ。企業活動の全ては健全なお金の流れがあってこそ。私は金の流れを管理している経理部門の一員。
気が付けば、私はベッドから体を起こしていた。
「おや、どうしましたか?菊元さん」
「美波さん、ありがとうございます。何だか書けそうな気がしてきました」
「おや、書けそうって、何が?」
そう言えば説明していなかった。1月末までに上席から推薦を受けた者は、3月上旬までに業務に関しての課題論文を提出し、4月に行われる昇格試験に挑むのだ。目安として原稿用紙5枚。この論文が、さっきまでの私にはまるで書けそうになかったのだ。
「論文です。業務論文。今なら書けそうな気がするので、家に帰ってさっそく書き始めます。私、チャレンジしてみようかと思います。受かるなんて全く思ってないけど。申し訳ありませんが、今日はこれで失礼します」
私はベッドから飛び降りていた。バッグを勢いよく鷲掴みにし、中の財布を引っ張り出す。
「いえいえ、お代はいいですよ。ほとんど今日は施術していませんし」
「そうはいきません。今日は、何が何でもお支払いします」
私は財布の中から、比較的綺麗な千円札を3枚取り出し、美波さんの胸の突き付けるようにこれを強引に手渡した。
「今日はこれで失礼します。有難うございました」
靴を履くのももどかしく、私は出口に向かう。
「次は道場で・・・」
美波さんの小さな声が、私の背中に届いた。
小さなミスを、私はここで犯す。ミーハーファンの事などすっかり頭から消えていた私は、山下ビルの正面玄関から出てしまったのだ。
土曜日の午前中だと言うのに、10人以上の人がもう集まっていた。いや、週末だから多いのか。ビルから出てきた私に視線が集まる。が、皆の興味は一瞬で消えて無くなったようだ。(なんだ、芝山美波じゃないじゃん!)って感じなのだろう。
それにしてもみんな若い。大方の人が私より年下だろう。そしてほとんどが女性。まあ、ミーハーファンなんて昔から若い女性と相場が決まっている。んっ?
一人だけ、たった一人だけ、50代後半か、あるいは60代と思しき男性が、少し他の集団とは距離をとって、電信柱に隠れるように立っていることに、私は気付いた。
(ふ~~ん、男性年配のミーハーもいるんだ)
一瞬だけ、その男性に向けて視線が止まったものの、すぐに私は駅に向かって歩き出した。
風は無かったが、それでも一月の朝の大気は冷たかった。




