乙女のチャンス(2)
会社勤めの方にも読みやすいように書いたつもりです。ヤナギは会社員です。
「はあ、昇格試験ですか?いいじゃないですか。何を悩む必要があるのでしょう」
それが美波さんの一声だった。説明しよう。
年が明けて、その2週目の月曜日。会社では直接の上席にあたる総務部長から、4月に行われる昇格試験にチャレンジする意向はないかと問われたのだ。唐突であったため、私は驚き、そして戸惑った。マネージャー資格を得るための試験だ。
現在30才。同期の社員で、すでにこの昇格試験を受けた人間も何人かは知っている。試験をパスし、マネージャーの肩書をすでに得ている者も、少数だがいる。しかし・・・
「いえ、私なんか・・・そんな、まだまだ・・・」
「私なんかまだまだ・・・その心は?」
私の反応に感情の起伏を見せるでもなく、部長はそう問うた。
私自身、私の反応を特に変だったとは思わない。それは本音だったのだ。それでも(その心は?)と問われて、言葉に詰まってしまう。
昇格試験はこれが初めてではない。4年前に係長試験を受け、これを一発でパスしている。
マネージャー昇格試験のチャレンジ資格は、係長試験を受かって3年以上の実務経験があることなので、私がいまチャレンジすること自体は、社内ルール上はおかしな話ではないのだ。
「まだ私には・・・そこまでの実力が・・・」
具体性に欠けたそんな言い回しが、部長への返信となったのだが、自分のその言葉に、私は打ちのめされる思いだった。こんな曖昧な言葉では、私の思いも考えも、まるで相手に伝わらないじゃないか。こんなコメント力の乏しさも含めて、一言でいえばやっぱり実力不足なのだろう。
「まあ、推薦状提出の期限まで2週間あるし。それまでに挑戦するか、今回は見送るか、決めてくれたらいいよ」
去っていく部長の背中を、私はしばし見ていた。
(自分で決めなさい)
そう呟いているような後ろ姿だった。
選択権と書かれた封筒を、ぽんと無造作に机の上に置かれた。そんな感じだったのだ。
「それはそうと、会社の昇格試験についてのアドバイスを私にって、その菊元さんの思考論理がよく分りませんね。はっきり言えば、菊元さんの神経を疑います。私には会社勤めの経験がありませんし、多少人より強いことを除けば、クズ以外の何者でもありませんよ。私」
昇格試験のことは、会社の同僚達には、一切相談していない。相談できる相手が見当たらないし、唯一相談できそうな相手は、社内で一番仲のいい同期の西川ちゃんだが、彼女は私が一発でパスした係長試験に少し苦戦し、今年はまだチャレンジ資格がないはずだ。彼女が人をやっかむような性格でないことは百も承知しているが、それでも私のそんな相談を、決して気分良く聞くことはできないだろう。そしておそらく、(頑張って)という言葉しか彼女としては返しようがないだろう。
心の晴れない一週間を過ごし、まるで思考が前進せぬまま、回答期日が1週間後に迫った金曜日の夕刻、突然私の頭に舞い降りたのが、以前に美波さんから聞いた話だったのだ。
あれは24才の若さで、柔心会主席師範の重責を背負うことになった美波さんの苦労話。
(自分なんて若輩で未熟)
何度も何度も、美波さんは当時の自分のことを、そう表現した。
本当に美波さんが未熟だったなんて、そんな訳はないだろう。なにせオリンピックメダリストをして、(自分より10倍強い)と言わせるような人なのだ。
それでも自分に厳しいが故、自分は未熟だと考えていたことは、本当だったかも知れない。何より実の父を蹴落として得た主席師範の椅子だ。当時の美波さんにとって、それは大きな重荷であり、十字架でもあったことは想像に難くない。
そんな葛藤を、美波さんが如何に乗り越えて現在に至るのか。そのことを私は聞きたかったのだ。
「はあ、私なんかに頼って貰えるのは嬉しい事ですが。でも、そもそも菊元さんのお仕事ってなんですか?それを教えてくれないと、全くアドバイスのしようがありません」
全くその通りだ。私は、総合商社で経理の仕事をしています。
「ケイリ?もちろん経理って言葉は知ってますよ。でも、具体的にそれがどんなお仕事なのか、世間知らずの私には分かりません。普段は、どんなお仕事をしているのでしょう」
日頃の仕事ですか?え~っと、「日々の売上管理」、それから「仕入れ管理」、「税金の計算」、
「普通預金の入出金確認」、あと「振込手続き」もやります。
うわっ、やっぱり難しいでしょうか?会社勤めの経験のない美波さんには。
「う~ん、もう少し判り易く、簡単に言葉にすると、どうなるのでしょう?」
簡単に判り易くですか・・・え~~と、ダメだ。自分の仕事内容もうまく説明できない人間が、どうしてマネージャーになんてなれるでしょうか。ここでも激しく自己嫌悪。
「ホント、私ってダメですね。自分の仕事の内容すら、上手く説明できないんですから」
ビルに入ってきた時よりも、私の心は沈んでしまった。やっぱり実力不足。今回のチャレンジは見送ろう。週明けにでも部長に伝えよう。そうしよう。その決断ができただけで、今日美波さんに時間を割いてもらった価値はあっただろう。
腹の決まりかけた私に、美波さんが優しく微笑む。
「言葉なんてそんなものですよ。言葉の限界って、意外とあっさりぶち当たります。柔気道の技を教えている時なんか、まるで言葉を私は信用していません」
ああ、なるほど。だから美波さんは常に道着姿で、自らの体を使って指導されているのですね。
「それでも言葉を知らない私が、菊元さんの仕事をアホっぽく表現すると、『会社のお金の管理』ってことになりませんか?」
はっ、そう、その通りです。少しもアホっぽくないです。付け加えれば、『会社のお金の流れの管理』です。アホっぽくないどころか、これほど的確に端的に、経理の仕事を表現する言葉って、他にないと思います。
それと、自分がチャレンジに尻込みしている理由が、おぼろげに分かってきました。
「総合商社ですから、営業さんは沢山います。技術コンサルタントも多いです。それから品質管理部門ですとか・・・そんな中で・・・私なんか・・・え~~と」
「またまた私には難し過ぎる言葉が並びましたね。で、なんで私なんか・・・なんですか?」
「ですから営業さんは、いっぱい注文を取ってくるとか、品質管理の人は、不良品を絶対に出さないとか、目標というか、目指すべき姿がはっきりしていると思います。それに比べて、経理って、ある意味、特別なスキルが必要ないというか、会社の雑用係と言うか・・・他の経理の人に怒られそうだけど・・・こんな事いうと・・・」
美波さんが、腕を組んで悩み始める。すいません。お疲れのところ変な相談しちゃって。
5秒、10秒。腕を組んだまま、美波さんの口が動き始めた。
「特に女性の入会者ですが、ダイエット目的で柔心会に入門される方がいらっしゃいます」
はい、その気持ち、よく分ります。分かりますが、話、思いっきり脇道に逸れてませんか?
「そんな人達に、まず真っ先に購入をお勧めするものがあります。それが何か、菊元さん、分かりますか?」
いえ、分かりません。サウナスーツとか?いや、その前にランニングシューズでしょうか?
「少し考えてみて下さい」
自分に相談する神経を疑うって言っていた美波さんの表情は、このときとても真剣だった。




