乙女のチャンス(1)
新章突入です。皆さまのお陰です。感謝!
裏口からこっそりと山下ビルに入る。
大晦日に全国放送で流れた溝田紀子の、(柔心会の芝山美波は私の10倍強い)発言から、柔心会本部道場の周辺と、この山下ビルのエントランスは、“第二次美波フィーバー”とも呼ぶべき、ミーハーファンの集いの場所と化しているのだ。
一次美波フィーバーは、某バラエティー番組に、その溝田紀子との対談形式で、美波さんがテレビに出た頃。あの時にも多くの人だかりが、ビルの前に確認できたのだが、今回のフィーバーは、あれとは過熱度の質が違う。
前回テレビに出た時の美波さんの立ち位置は、(オリンピックメダリストの溝田紀子が、かつて嫉妬した超一流だった人)というものだった。つまりは過去のお話だったのだ。
今回は多くの格闘技ファンが注目する大晦日の生放送中に、現役選手である溝田紀子が、(芝山美波は10倍強い)と発言したのだ。いま現在の話だ。この違いは大きい。
あの大晦日、私達がタイ風味クロダイ鍋とカサゴの唐揚げ、そしてスズキの湯引き梅肉和えを平らげて、少し残念な結果に終わった“お鍋パーティ&溝田紀子応援会”を、まさにお開きにしようとするタイミングで、美波さんのスマホがテーブルの上で振動した。
「ごめ~~ん、美波。負けっちゃった~~それから美波を巻き込んじゃった~~~だってあのステイシーのガキ、(日本武道に勝った)みたいな言い方しやがるから。ごめんね~~落ちついたら、また会おうね~じゃあね~~~」
試合を終えたばかりの溝田紀子からの電話だった。スピーカーモードにしていなくとも会話の内容が聞き取れるほどの、大音量の溝田の声だった。試合直後だというのに、とてつもなく明るかったその溝田の声は、たぶん彼女の強がりなのだろうと思うと、心が少し痛んだ。美波さんも同じ心持ちだったようで、(気にしないで~)と返したこちらも表面上は明るかった声色に、一抹の悲しさが垣間見えた。
そして年が明け、柔心会本部道場の練習風景が一変した。柔気道の練習に励む生徒と同じくらいの数の見学者が、広い道場の周りをぐるりと囲むようになったのだ。
見学は自由。加えて無料。その敷居の低さから、性別年齢様々な人が、一目芝山美波を見ようと、柔心会本部道場に押し寄せた。
大抵の見学者は、いわゆるウィンドウショッパーみたいな感じで、そんな見学者の相手は、美波さんが直接ではなく、古参の道場生が対応した。
彼らとは別に、体験入会を希望し、わざわざ練習着を準備してくる者もいた。
明らかに格闘技経験があると体つきで判る人達もいて、そんな人が入ってくると、ややピリリとした空気が、道場内に漂うこともあった。
(柔気道とは芝山美波とは、どの程度のものなのか確かめてやろう)
そんな意図を持って体験入会を希望する輩は、どこか雰囲気で判った。新参の私なんかから見ても、彼らの横柄な態度が癇に障った。
「乱取りから始めましょうか」
彼らのほとんどを、美波さんが直々に相手をした。
そして彼ら全員が、美波さんと組み合ってすぐに投げ飛ばされた。3,4回投げられれば、ほとんどの体験入会者は、驚愕の表情を見せ、すぐに戦意を失った。そして彼らが、また本部道場に現れたことは、私の知る限りではない。
週に一度程度しか稽古に顔を出していない私の感覚なのだが、見学者、体験入会者のなかで、正式に入門までに至るのは、ざっくり10人に1人といった割合だろう。それでもやはり本部の道場生の数は、確実に増えている。
私にとって、未だに謎のままの美波さんの私生活だが、この二次フィーバーの影響で、以前より多忙になったことは間違いない。
最近、道場内でややお疲れ顔を見せることも珍しくない美波さんなのだ。
それでも、今日私が整体シバヤマに訪れたのには理由がある。どうしても美波さんの意見というか、アドバイスを貰いたいって心境なのだ。
そして比較的お客さんの数が少ないであろう週末の午前中、整体シバヤマに足を運んだのである。
「あら、いらっしゃい。菊元さん」
「おはようございます。美波さん」
少し美波さんの顔が眠たそうだ。金曜日の柔心会の練習は午後9時に終わる。その後、美波さんは整体シバヤマに戻り、一週間の疲れを癒そうと、店に訪れるお客さんに対応することとなる。もしかすると土曜日の朝って、美波さんが一番疲れている時間だったのではないかなんて、逆にこの時間に訪れたことを反省する。
「今日はどうしました?整体ですか?それとも柔気道の個別練習をご所望とか?」
「あっ、いえ、じゃあ全身の整体60分コースで」
「あいよ、では施術室に行きましょうか」
美波さんの声は、優しかった。
「腰回りがくびれて、背中の筋肉に弾力が出てきましたね。熱心に稽古している証拠です」
ベッドにうつ伏せになった私の背中を数秒触っただけで、美波さんはそう言った。
「砕肩の表技なんか、すごく上手になってきてますよ。いま菊元さん、8級でしたっけ?そろそろ5級くらいの昇級試験を受けましょうかねぇ」
砕肩ってのは柔気道の技の一つだ。元々は鼻砕肩という名称だったのを、美波さんが改名したらしい。
(名前で技が想像できるような呼称は、武術の技の名としては芳しくない)
そんな理由による美波さん独断の改名であったらしい。
この技を僭越ながら8級の私が解説するとこうだ。
相手がこちらの襟を掴みに来る。
襟を掴まれるタイミングで、半歩体を引きながら、手の小指の付け根、手刀ってみんな呼んでるけど、ここを相手の肘の内側に当てて、自分の体を沈める。
すると前方に体勢の崩れた相手の顔の位置が下がる。この下がった顔の鼻柱に、自分の肩をガンッ!ってぶつけるのだ。
相手の体勢を崩す動作が一挙動目。肩をぶつける動作が二挙動目という技なのだが、美波さんがこの技を出すと、まるで挙動と挙動の間が確認できない。
あたかも相手が、勝手に自分の顔面を美波さんの肩にぶつけて、一人で勝手に呻いているって感じになるのだ。まるで歩きスマホでドアにぶつかるアホおじさんの風体だ。
態度の悪い体験入会者の何人かは、ほんの一瞬、美波さんの襟を掴んだだけで、この技によって鼻血ブ~となり床に転がった。
素人の域を出ない8級の私なんかが見ても、(かっこいい~~)って思える技なので、特にこの技を、最近はよく練習している私なのだ。
それにしてもだ。本部道場ではいつも40名ほどの練習生が稽古に励んでいる。これに最近では、この稽古をぐるりと囲んで観ている見学者もいる。
そんな状況で、底辺道場生の私なんかの練習にも、ちゃんと美波さんは注意を配ってくれている。嬉しいことだし、ホント凄い人だと思う。
いま美波さんは私の背中をマッサージしてくれている。これまで通りの施術だと、まもなく足の指に施術箇所が移るはずだ。そうなると、ポジション的な問題で少々話がしにくい。
思い切って話すなら今だ。
「あの~今日伺ったのは、美波さんに相談というか・・・アドバイスが欲しいなと思いまして・・・」
「はぁ、何でしょう?ワタルの浮気ですか?」
違うし・・・って、なんで美波さん知ってんの?私とワタルさんの関係??
「えっ、私とワタルさんって、そんな・・・」(わたふた)・・・
「へぇ~やっぱりそんな関係になってましたか。怪しいなぁと思ってたんです」
えっ、もしかしたら、カマかけました?引っ掛かりました?私
「はい、カマかけました。菊元さんは正直ですねぇ。あまり武術家には向いていない性格のようです。まあ、いいです。でっ、相談とは?」
「あの~実はですね・・・」
少し顔を赤らめながら、私は今日の本題を、したり顔の美波さんに切り出した。




