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201X年大晦日(7)

大晦日編完結です。自作は『乙女のチャンス』です。


「闘技者としては、明らかに溝田の実力が上だった。それでもこんなことが起こるのがリングの上だから」


ヤナギさんがゆっくりとそんな言葉を発するまで、しばらくの間、私達は沈黙の中にいた。

溝田の目尻から、吹き出すようにステイシーの体に零れ落ちている血をレフェリーが確認するや、いったん試合が止められた。そしてドクターチェック。男性ドクターの判断は早かった。溝田の傷口を覗き込むように一見すると、すぐに首を横に数回振った。ドクターのジェスチャーに遅れること数秒、試合終了のゴングが鳴らされた。


溝田のTKO負け。優勢に試合を進めていた溝田が、苦し紛れと言っていいステイシーの下からのパンチに、目尻を切ったのだ。その出血、素人の私なんかから見ても、ストップは致し方ないと思える程の量だった。

そして、私達にどうしょうもなく重い沈黙が訪れたのだ。


「悔しいだろうね、キコちゃん」


ぼそりと、美波さんが言葉を漏らす。

悔しくない訳はないだろう。それでも、この残酷な結果を、彼女は受け入れたのだろう。切れた目尻に厚いガーゼで応急処置を施された溝田の顔には、自らの足でリングを降りるとき、どこか晴れやささえ漂っていると私は感じた。こんなことが起こるのがリングの上。きっと彼女は理解している。私なんかより遥かに。


溝田とステイシーの試合のあと、いまリングで行われている試合も女性同士の試合だった。

一方の日本人は、相当の実績とネームバリューを持つ選手らしいが、試合自体には緊張感がないように思えた。そう思えるのは、たぶん私達の感情移入の量の問題だろう。


この試合は1ラウンドで決着がついた。日本人の方が勝ったのだが、相手の韓国人選手のパンチやキックは、溝田にTKO勝ちを収めたステイシーのそれと比較して、素人の私なんかでも分かる程に、格段に劣っていた。


(この韓国人が溝田さんの相手なら、絶対勝てたのに)


そのセリフが喉まで出かけたが、私はそれを言葉にしなかった。

そんな私のセリフを、誰も喜ばないであろうことが、直感的に分かったからだ。

いま、画面の中では、控室に戻ったステイシーのインタビューが始まっていた。

顔や肩に生々しい傷跡がある。額の汗は、拭っても拭っても、瞬く間に中から吹き出し、ステイシーの額でたっぷりとした玉になっていた。

早口で発せられるステイシーの英語を、背の低い黒いスーツ姿の女性通訳が日本語に変換する。


「昔から尊敬していたアスリートであるミゾタ選手に勝てたことは、本当に嬉しい」


そう言葉にする彼女は本当に嬉しそうで、さっきまで抱いていた敵対心が、すぅ~と消えて無くなりそうになる。


「“ブシドー”という言葉に、子供の頃に感銘を受けた。”ブシドー“生まれの地であるニッポンで、ニッポンの武道家と戦えたことを、一生の誇りにできる」


ステイシーの選ぶ言葉には、どれにも勝者のおごりが感じられず、彼女が謙虚で誠実な人物であることが、今更ながらによく分った。溝田を最後まで苦しめた彼女のスタミナや柔軟性は、すべてが持って生まれた資質だけではないのだろう。


続いて映し出された溝田側の控室の様子は、何かのパーティ会場のような明るさだったステイシーのインタビューとは、実に対照的だった。

ステイシーが、溝田を昔から尊敬していたと語ったことや、武士道についてのコメントなんかに対しても、溝田の反応は曖昧だった。


(自分が弱かったから負けた)


溝田のコメントを要約すると、ほとんどその一言に尽きた。唯一、溝田が強く反応したのが、(ニッポンの武道家に勝てて嬉しい)と通訳されたステイシーの言葉だった。


「ステイシーさんが勝ったのは、飽くまで私。弱い私に勝っただけ。私ごときに勝ったくらいで、日本武道に勝ったなんて考えてもらっちゃあ、少し困る」


このインタビュー中、初めて溝田が感情を露わにした瞬間だった。

ふと美波さんの方に視線を向けると、何とも沈痛な表情。私の心もチクリと痛む。

そんな美波さんの心境に気付かない振りをして、私はクロダイのお鍋とカサゴの唐揚げに、交互にお箸を伸ばした。

アーリアさんは、溝田のことをまるで知らない。どうして美波さんや私が、これほど熱く溝田を応援していたのかも分からないだろう。彼女はお鍋以上に、カサゴの唐揚げがお気に入りなのか、そちらに多く箸を運んでいた。少しお箸の使い方がぎこちない。まあ、それは致し方ない。


溝田のインタビューが続いている。勝者であるステイシーのそれより長い。やはり元オリンピアンでメダリスト。世間の注目も集まっていたのだろう。


「私より強い日本人なんて、掃いて捨てるほどいる。単純に溝田紀子が弱かった。それだけ・・・」


先般、晴れやかな顔でリングを降りたはずの溝田の感情が、言葉尻に滲んでいる。必死に抑えていたものが、抑えきれなくなったのだろう。そう、悔しくない訳はないのだ。絶対に。


「例えば・・・例えば、柔心会の芝山美波なんて、私の10倍は絶対に強いから・・・」


私は、お箸を落としそうになった。美波さんとヤナギさんは、実際にお箸を落とした。


これは・・・エライこっちゃ。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 強いものの矜持とかっこよさ、本当に素晴らしく描かれていて、いつも読んでいて素敵だと思っています。 [一言] 日本武道に勝ったと思ったら困る、というのは溝田さんや美波さんからしたら矜持に関わ…
2022/06/14 00:30 退会済み
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