201X年大晦日(6)
Orcaさん 復活おめでとうございます。
結果として、1ラウンド10分間に、溝田はステイシーを6~7回投げた。投げては上から寝技を仕掛けた。そしてこの寝技がステイシーを捕えるには至らなかった。
川の流れの様な汗をかき、立ち上がる毎に肩を大きく揺らしていた溝田であったが、それでも動きが緩慢になったり、苦しそうな顔をしたりということはなかった。
(よく鍛えてきている。今のところスタミナに問題はなさそうだ)
1ラウンド終了の鐘に、ようやく(ふぅ)と、私達は肩の力を抜いたのだが、その時のヤナギさんの溝田を評した言葉がそれだった。
「2ラウンドも同じ展開なら、判定でキコちゃんだよね」
美波さんも、溝田優勢の展開に少しは心が落ち着いたのか、そうヤナギさんに問うた言葉はいくぶん柔らかかった。
「うん、同じ展開ならね。でも溝田がどう考えているか。判定決着なんて望んでいるかな。オリンピックメダリストのプライドもあるだろうし・・・」
そんな美波さんとヤナギさんの会話を、2ラウンド開始のゴングが遮った。
溝田の構えが高い。パンチを頻発するようになってから、立っているときはずっとこの構えだ。そして不思議なことに、溝田がこの構えに変わってから、投げ技が綺麗に決まる確率が格段に高くなったのだ。
(打撃技を交えることで投げ技が活きてくる)
美波さんとヤナギさんの予想が、溝田にとって、いい方向に当たったってことなのだろう。
もちろん不安がない訳ではない。美波さん曰く、(打撃はステイシーの土俵)なのだ。リング上で二人が激しく動いている時には分からなかったが、インターバルの間に映し出された溝田の顔には、いくつかの赤い打撃痕があった。溝田に向けられたステイシーの攻撃も、確実に溝田の体に当たっていたのだ。決して打撃の攻防で、溝田がステイシーを上回っていた訳じゃない。
加えてスタミナの問題。溝田は美波さんと同級生だから35才のはず。対してステイシーは20代前半。長引けば、この年齢的ハンデがじわりと効いてくる懸念がある。
てなところが、私の感想なのだが、どうだろう。美波さんとヤナギさんの解説を聞きたいところだ。
テレビのスピーカーから歓声が聞こえた。溝田が上になっている。またも溝田がステイシーを投げたのだろう。
「さて、ここからどうしようか、ヤナギさん」
「いや、僕も寝技は専門外なんで、何とも」
「でも何でもありの喧嘩は専門でしょ。若い頃はやんちゃだったヤナギさん」
えぇ、ヤナギさんって、やんちゃだったんですか?そんな印象まるでないですが。ザ・ジェントルマンってのが私の印象です。遥かに年下の私や美波さんに対しても、いまだ敬語で話してるし。人は分からないものですね。
「そんな大昔の話を掘り返さない。寝技は専門外だけども、打撃を混ぜることで投げ技が活きてきたんだから、それは寝て戦っている状態でも、きっと一緒でしょう」
ヤナギさんの言葉を耳で聞きつつ、私は画面の中の攻防を見ている。溝田が上、ステイシーが下。ステイシーの両足が、溝田の胴に巻き付いている。1ラウンドにもよく観た光景。腕や首を捕まえようとする溝田に対して、下で大暴れして溝田の体を引き剥がし、ステイシーが立ち上がるってのがこれまでの攻防。さて、今回は・・・
相変わらずステイシーは元気だ。まるで休むことなく体が動き続けている。
「マッカレル・・・」
何だ?マッカ・・・今の一言、アーリアさん?タイ語ですか?今の。
そのアーリアさんの一言にヤナギさんが笑みを見せた。
「マッカレル、鯖のことですね。魚の」
サバ?サバって、あのサバ??どういう事でしょう???
私の疑問を察して、ヤナギさんが解説してくれる。
「いま、菊元さんが一人で食べているクロダイですが、見ての通り白身の魚です」
うわっ、一人で食べてました?私?だって、美味しいんだもの。ごめんなさい。みんな溝田の試合に集中してるし。せっかくのご馳走を冷ましてしまうのもどうかと思いまして。
「白身の魚ってのは、瞬発力は強いですが、持久力はあまり無いんです。魚釣りをすればよく分ります。反対に持久力があるのが赤身の魚です。中でも鯖と鮪の持久力は魚の中でも際立っています。従って、マッカレル、”サバだ”という表現は、“凄いスタミナだ”って解釈になります。海に面した東南アジアの人達って、身近だからなのか、人の特徴や性質を、よく魚に例えて表現します」
最初からスタミナのありそうな体型だっておっしゃってましたよね。ヤナギさん。
そして、まさにステイシーはその通りだったと。さすがの慧眼です。
「ここまでステイシーにスタミナがなければ、この試合はとうに終わっていたと思います。10分間戦っても、まだステイシーのスタミナは底を見せない。加えて・・・」
「まだ10分近く時間はある。絶対に捕まえるよ。キコちゃん」
自分に言い聞かせるように、美波さんがヤナギさんのやや悲観的な感想を遮る。
と、同時にまたもステイシーが被さっている溝田の体から抜け出した。びっくりするくらいステイシーの腰が捻じれ、次の瞬間に一気に反対方向に腰を切って、溝田の体をまたも引き剥がしたのだ。
「これ、この体の柔軟性。相手は底なしのスタミナの持ち主で、体も柔らかい。そして掴む着衣がない。溝田が寝技で仕留めきれないのは、こんなところが原因ですね」
展開は、未だ予断を許さないようだ。
“ダンッ”とステイシーの背中が床に落ちた。今日10回以上、私達が見て聴いてきた動きと音であるが、ステイシーの背中が床を叩く音が、これまでで一番大きかった。またまた溝田がステイシーに乗っかっていく。
そして今日一番の歓声。ステイシーに被さっていきながら、上からパンチを溝田が落としたのだ。
うわっ、えげつない!寝てる相手に上からパンチするなんて、私なんかにぁ身の毛がよだつ光景だ。1発、2発。そして3発。
1発目のパンチは当たったように見えた。ここで観客が沸いた。2発目は当たらなかったような気がする。3発目は掠ったって感じ。観客のテンションは、今や最高潮だ。ここで溝田の勝利が近づいたと考えるのは、楽観に過ぎたりはしないだろう。でしょ、美波さん。
でも、ステイシーもやはり強者だ。背中を床に付けながら、溝田に対して下からパンチを放っている。端正な顔が赤く膨れ上がっている。負けん気の強い女の子だ。まあ、そりゃそうだろう。異国の地で格闘技のリングに上がる様な娘なのだから。
「大丈夫、キコちゃん。手先だけのパンチだから。パンチを出しながら、相手の動きをよく見て。腕捕るチャンス、あるよ~」
美波さんの応援。意外に声が落ち着いている。格闘技に限らず、(できる人)ってのは、訪れたチャンスを、慌てず冷静に手中にできる人達なのだろう。今の美波さんを見ていてそう感じる。
サバのようだとアーリアさんが表現したステイシーのスタミナも、さすがに底が見えてきたようだ。溝田の下で動くステイシーの動きが、やや鈍い。決着の時は近い。たぶん。
おそらく画面を見る私達の中で、最初にそれに気付いたのは、私だったと思う。
(えっ、今のなに?)って私が思ってから、ヤナギさんが(あっ)と声を漏らしたのは、それから数秒後だったから。
溝田の顔から、何かがぽたりと落ちたのだ。汗の玉としては大き過ぎる何か。やがてボタボタと激しくそれは滴り始めたのだ。
溝田の左の目尻から噴き出たものが、黒く太い筋を、溝田の頬に2本作っていた。




