201X年大晦日(5)
溝田さん編、終盤です。
「いまの寝技の攻防で、だいぶん体力を消耗したかもね。溝田」
そんなヤナギさんのコメントに、美波さんがピクリと肩を強張らす。どうしてそんな美波さんが不安になるようなことを言うのだろうと、少し私はムッとしてしまった。でもヤナギさんって、そんな人なのだ。安易に楽観的な言葉を口にしたり、無責任に人を慰めたりしないのだ。たぶん。おそらく50才を超えていて日本企業の海外拠点勤務。それなりに責任のある立場であることは想像がつく。世の甘い酸いを知っている人なのだ。
そしてヤナギさんがそんな人であることを、私なんかより遥かに美波さんは理解しているはずだ。それでも・・・
「溝田さん、見事に相手を投げてましたよね」
私のそんな言葉で美波さんの不安が払拭される訳は無い。私自身も、そんなことまるで期待しちゃいない。先般、テレビの中で起こったことそのままを、ただ口にしただけなのだ。
「あのステイシーって選手、投げられることを少しも嫌がっていない。なにせ相手は柔道のメダリストだからね。投げられるのは想定内ってことなんでしょう。下手に抵抗して怪我をしたり、スタミナを擦り減らしたりすることの方が嫌、とでも考えてるんじゃないかな」
(体幹が強く、スタミナのありそうな体型だ)
ヤナギさんのステイシーについての第一印象を、私は思い出す。
「ここまでのヤナギさんの感想は?」
美波さんの質問。それ、私もぜひ知りたい。
がっ、ヤナギさんが答える前に、ステイシーが前に出たため、皆の視線はテレビの方に引き戻された。溝田の太ももを狙ったステイシーのキック。バチンッ!と鳴った炸裂音は、気のせいかさっき聞いた音より大きかった。何発かキックが当たった溝田の左脚が、すでに少し赤みを帯びてきている。
「利かせる蹴り方に変えてきたね。踏み込みも少し深くなった。組みつかれても構わないって覚悟ができたのかな。寝技に持ち込まれても、それほど溝田の寝技は怖くはないって判断かも知れない」
悲観的なヤナギさんの感想が続く。何だか場の空気が重くなっている。嫌な感じだ。
その時、テレビの向こう側で、これまでとは違ったやや大きな歓声が聞こえた。
何だろうと思って画面に視線を移すと、これまで重心を低く構えていた溝田の姿勢が、少し変わっていた。やや姿勢が高くなったのだ。
またもステイシーが蹴った低いキックに対して、溝田が右手でパンチを出した。溝田が今日初めて出した打撃技。会場がちょっと騒めく。さっき聞いた歓声と似ている。ってことは、先の観客の歓声も、この溝田の打撃技に反応したものかも知れない。
溝田のパンチは当たってはいない。ステイシーが首を振って躱したからだ。
すぐにまた溝田がパンチを出す。狙うは少し自分よりも高い位置にあるステイシーの頭部。
これもまた躱されたが、美波さんが相手のパンチを躱すときの様な、優雅さというか、余裕は感じられない。
「なかなか切れのあるパンチだね。相当打撃の練習を積んだのかも知れない。溝田は」
「でも打撃は相手の土俵でしょ。キコちゃんの戦い方じゃない。あまり相手の土俵に乗っかってしまうのはどうかなって、アタシは思うけど」
ヤナギさんと美波さんの短い言葉のやりとり。実際のところ、どうなんでしょう?この攻防は。私にはてんで判りません。
「ステイシーの躱し方に余裕がなかった。溝田のパンチの切れが想定以上だったのかも知れない。それと打撃を織り交ぜることで・・・」
「投げ技や組み技が活きてくると」
「まあ・・・そんなところかな」
そんな2人の予想を肯定するように、またも溝田がステイシーを見事に投げた。パンチを打つと見せかけて一気に相手に組みついたのだ。組みついてから投げるまでがとても速かった。
「やっぱり投げ技は一級品だね、キコちゃん」
「うん、もう少し着衣が無いことに苦労するかと思ったけど、上手くこのルールに対応している」
この2人のやり取りから察するに、つまり溝田有利という現状分析でよろしいのでしょうか?
「この後も何度か溝田はステイシーを投げるでしょう。その後、如何に極めるか。問題はそこでしょうね」
このヤナギさんのコメントは、要約すると、溝田が勝つのは時間だけの問題という認識でよろしいのでしょうか?安心して私たちはテレビを見続けていいと・・・
「投げ技は、当然だけど圧倒的に溝田。打撃に関しても、溝田は引けを取っていない」
ならば圧倒的に溝田有利ってことですよね。安心しました。それでは冷めてしまわないうちに、皆のお箸が止まっている間に、私はクロダイの鍋を堪能するとしましょう。
「ただし問題は・・・」
あれっ、ヤナギさんのコメントは一段落したものと思っていました。しかも(ただし)なんて逆説の接続詞。またまた少し嫌な感じ。
「スタミナだよね」
そう言ったのは美波さん。圧倒的に有利であるはずの溝田にも不安材料が無い訳ではないのでしょうか。
今度は溝田が、ステイシーを腰に乗せて見事に投げた。すぐに上から被さっていく。
今回の寝技の攻防はこれまでより少し時間が長かった。それでも、また溝田の寝技はステイシーを捕えるには至らず、2人は起き上がった。一気には詰まらない距離を隔てて見合う2人。
溝田の方の肩が、誰もが気付ける程に、大きく大きく上下していた。




