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201X年大晦日(4)

今回は完全な格闘技小説となりました。看板に偽りありで申し訳ありません。


溝田紀子の相手は白人でアメリカ人らしい。ステイシーという綺麗な響きのファーストネームに劣らず、ブロンドの髪が似合う美形だ。ウエストが細く、その体型はすらりと縦方向に長い。シャツもパンツも黒を基調にしたコスチュームなので、細身の体がさらに締まってみえる。

年齢はおそらく20代前半。その表情にはまだあどけなさが残されている。こんな可愛らしい女の子が格闘技をやる時代なんだって、少し不思議な感じがする。いや、それほど不思議でもないかも知れない。最近では柔心会にも、(自分も強くなりたい)って感じの新規女性入門者が確実に増えているのだ。彼女らの主席師範、すなわち美波さんを見る眼は、まるでアイドルタレントを追うファンの視線そのものだ。強さに憧れる女の子が増えているのだ。時代の変化を感じる。


「線は細いけど、体幹たいかんは強そうだね。腹筋が発達してるしスタミンもありそうな体型だ」


これがステイシーを一見したときのヤナギさんのコメント。ヤナギさんの言う通り、ステイシーの腹筋が物凄い。タイのホテルで見てびっくらこいた美波さんの腹筋と比べても、まるで遜色ない。

美波さんは、今のところこれと言った意見も感想も述べていない。じっと画面に見入っている。真剣な表情。その表情の固さは、このステイシーなる対戦相手が元銀メダリスト溝田をしても、決して容易に勝てる相手ではないことを予感しているのだろうか。それとも、もし自分が戦わばってシミュレーションでもしているのだろうか。


溝田とステイシーがリング中央で、レフェリーを挟んで向き合う。顔半個分ほどステイシーの方の背が高い。二人ともだらりと両手を下げているが、ステイシーの手の長さが際立っている。リーチって言うのかな、身長差以上に、こっちの方に割合的な差がありそうだ。

2人の両手には青いグローブがはめられている。このグローブだが、柔心会の本部道場にも置いてあるグローブなんかと比較して圧倒的に小さい。そもそもグローブと呼ぶものなのかどうかも、私には分からない。


「Good-luck」


唯一聞き取れたレフェリーの声。


(お互い健闘を!)


日本語にするとそんなニュアンスなのだろう。2人がいったん離れる。ものすごい歓声に臨場感があるのは、テレビの画面が大きいことだけが理由ではないだろう。

いったん2人が離れる。四角いリングの対角線上に。私の胸のドキドキに構うことなく、実にあっさりとゴングが鳴らされた。


溝田は腰の重心をやや落として構えている。開かれた両手は胸の高さ。それに比べてステイシーの方は、やや重心が高く、手の位置も顔の前だ。柔心会のメンバーにも、練習中にこんな感じの構えをする人達がいて、そんな彼らは総じてキックが上手だ。重心を高くして構える方が、キックが出しやすいのだろうかなんて、私はいま考えている。

美波さんは言うに及ばず、ヤナギさんもアーリアさんも、お箸の動きが完全に止まってしまった。


2人が見合っていたのは、おそらく10秒にも満たない時間。緊迫感に満ちた静寂だった。

さきに動いたのはステイシーの方。予想通りっていうのはおこがましい気もするが、それでもステイシーが、溝田のお腹辺りに向けてキックを出した。トーンって感じの軽いキック。難なく溝田がこれをかわす。そして再びの静寂。会場に入っている観客の数は1万人以上らしいが、彼らも今のところ実に静かだ。

またもステイシーのキック。さっきとは少し蹴り方も狙った箇所も違う。このキックが溝田の太ももの辺りにヒットする。

(パチンッ)という小気味の良い音。キックを当てるや、大きく後方に距離を取ったのはステイシー。この段に至っても、緊張こそ感じられるものの、溝田の表情は落ち着いているように思える。さすがは世界を相手に戦ってきた猛者ってことなのだろう。


まだ始まって30秒の時間も経過していないが、これまでの攻防を、僭越ながら私なりに解釈すると、どっしりと腰を据えて相手を観察している溝田。打撃技を中心に距離を取って戦いたいと考えているステイシーって感じになるだろうか。

またステイシーのキック。狙いは溝田の太もも。これも当たった。溝田の表情に変化は認められない。


「このローキック、ヤナギさん、どう思う?打撃の専門家の眼から見て・・・」


美波さんがヤナギさんに問う。


「膝から先を走らせたいいローキックだと思う。かせるローじゃないけど、貰い続けるとダメージは溜まるでしょう。でも・・・」


ヤナギさんの言葉に少々の間が空く。


「いつまでも貰い続ける気はないでしょう。溝田も・・・」


ヤナギさんの言葉を結果的に肯定するように、ステイシーが出した3発目のキックに合わせて溝田が一気に踏み込んだ。

伸び上がるようにステイシーの頭部に右腕を絡ませて、そして投げた。

ぐるんとステイシーの体が空を舞い、背中から床に落ちた。“バイン”という激しい音が、臨場感たっぷりに、私の耳に届いた。

これが柔道の試合なら文句なしの一本。さすが元メダリスト。観客の大歓声につられて、思わず私は声を上げてしまった。

しかし2人の動きはここで止まらない。上から被さっていく溝田。下で激しく体を揺するステイシー。

(ずるりっ)って感じで、ステイシーが溝田の体から抜け出す。抜け出した後の動きが速い。一気に立ち上がって溝田から離れようとする。一度は追撃する動きを見せた溝田だったが、その動作を途中で止めた。たっぷりとした距離が、2人の間に再び生じる。


低い構えの溝田。やや重心の高いステイシー。始まったばかりの時と構図はさほど変わらない。

すぐにステイシーがキックを出す。これも先の攻防と一緒。しかし、今度は溝田がこれを受けなかった。一気に前に出て体を沈め、ステイシーの腰の辺りを抱きかかえる。重心の浮いたステイシーの足に、自分の足を絡める溝田。あっけなくステイシーが後方に倒れる。


「ナイス・テイクダウン!」


ちょっと私には難し過ぎる専門用語を口にしたのはヤナギさん。ヤナギさんが言うのだから、たぶんナイスなのだろう。テレビの向こう側でも、観客の歓声が響いた。

上から被さっていく溝田。膝と足の裏を使って溝田を近寄らせまいとするステイシー。

もうさすがに、動物のじゃれ合いに例えることはできない。2人の表情が真剣そのものなのだ。


「キコちゃん、慌てない。落ち着いて。相手の動きをよく見て・・・」


美波さんのそんなアドバイスは、もちろんテレビの向こう側の溝田に届くはずもない。

そんなことはお構いなしに、美波さんの言葉に熱が籠っていく。


「ちょっと上体突っ込みすぎ。しっかり膝に体重残して・・・慌てなくて大丈夫」


罠に掛かった野生動物が、死に物狂いで暴れるように、溝田の体の下でステイシーが激しく体を動かしている。長い手足を、ときに溝田の体に巻き付けたり、ときに伸ばして突き放そうとしたりする。

何かのタイミングで2人の体に若干の隙間が生じた。長い両脚を折りたたみ、この空間に足を滑り込ませたステイシーが、一気に溝田の胴を蹴り上げた。溝田の体が強引に引き剥がされる。くるんと体をすばやく回転させ、起き上がるステイシー。立ち上がるやすぐに数歩分の距離を取る。一方で溝田は・・・片膝を床に付いたままだ。追撃しない。両肩が上下している。

溝田のその体勢を見るや、ステイシーが大きく踏み込み、低い位置にある溝田の顔を、横なぶりに蹴ろうとした。溝田が立ち上がり、このキックをかわす。再び距離を隔てて見合う2人。


またも試合開始当初と寸分違わぬ構えで向き合う2人。そこだけを捕えると、まるで時間が巻き戻ったかようだが、ひとつだけ、その時と変わっていたことが私にも分かった。

低い姿勢の溝田の両肩が、ゆっくりとではあるが、それでも大きく上下していた。



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