201X年大晦日(3)
2022年4月30日
人生の目標が全て達成されました。
淀川よ、ありがとう。
豪華な料理が並んでいる。
メインディッシュは味噌ベースのお鍋。具材は厚く切ったクロダイの身とお野菜各種。
極めてシンプルな調理法だが、この料理の肝は、ヤナギさんがタイから持参してくれた魚醤を使ったお出汁。一口すすると、初めは合せ味噌の優しい風味と甘さが口いっぱいに広がり、少し遅れて魚醤の酸味が舌をぴりりと刺激する。このスープが、淡白なクロダイの旨味を存分に引き立てるのだ。お出汁を吸って少ししんなりした野菜のシャクシャク触感も、いいアクセントになっている。
赤い魚のから揚げも美味しい。外はカリカリ、中はホクホク。この魚は”カサゴ”という名前らしいが、その厳つい外観からは想像も付かないほどの上品なお味なのだ。このから揚げが、炊き立ての白米と相性が良い。”カサゴのから揚げ定食“なんてのが街の定食屋さんのメニューにあれば、ぜったいサラリーマン達にウケると思う。
アーリアさんは、このカサゴのから揚げを、これもヤナギさんが持参してくれていたパクチーの葉に包んで食べていた。私もこの食べ方を試してみると、これが何ともエキゾチックな風味で、とても美味しく、日本人の私には新鮮な味だった。
ヤナギさんとアーリアさんは、ご飯はほどほどに、スズキの洗いを肴に日本酒を飲んでいる。さっとお湯で引いたスズキの切り身に、裏ごしした梅肉と少々の魚醤を付けて食べる。2切れほど私も頂いたが、こちらの方はお酒のアテとして正に極上の品だ。んっ?アーリアさん、貴方、まだ未成年だったのでは?
「次かな、キコちゃんの試合」
組んで解れてのお兄さん達の取っ組み合いは、私なんかにゃまるで理解が及ばない。テレビの中ではすでに3試合目が映し出されていたが、印象に残ったのは2試合目に出場して負けたらしいお兄さんが、やたらと二枚目だったことくらいだ。
では見どころがないかと言うと、そう言う訳ではないらしく、お箸を口に運びながら、美波さんもヤナギさんも、“ほぅ”とか“う~~ん”とかって感嘆符を偶に漏らしている。格闘技経験者の2人、いや、美波さんに関しては経験者というレベルでは済まされないが、そんな2人から見れば、相当に見応えのある攻防なのだろう。
この3試合目の決着は唐突に訪れた。一方の選手のキックが相手の顔面に当たったのだ。ちぎれた棒切れのように、蹴られた選手が倒れて、動かなくなった。
「このルールで上段蹴りを出せるなんて、よほど寝技に自信があるからこそだね」
ヤナギさんの言葉なのだが、ピクリと美波さんが反応した。私にはこの美波さんのピクリの意味がなんとなく理解できた。実のお父さんとの主席師範の椅子を賭けた戦いで、美波さんは、このジョウダンゲリとやらで耳を怪我しているのだ。顔へのキックをジョウダンゲリって名で呼ぶのだろう。たぶん。
「次、キコちゃんの試合だね」
美波さんがそわそわとし始めた。アーリアさんとの乱取りでも、パタヤビーチで白人アマゾネスと向かい合った時も、まるで緊張って言葉が似合わなかった美波さんだ。むしろ戦いが苛烈になればなるほど、深い海の底に沈んでいくかのように、美波さんの挙動は静かになり、その表情は冷たくなっていったものだ。
そんな美波さんが、いまそわそわしている。
出てきた。溝田紀子だ。金髪を後ろ一か所に束ねたその顔は、数カ月前に柔心会本部道場で見た彼女よりも、心なしかシルエットが鋭くなっている。あのとき意外に優しそうと感じたその眼も、強く輝いている。
いで立ちは、おへその出た赤いタンクトップに、美波さんがタイのリングで着けていたような、こちらも赤いトランクス。これまで戦っていた男性選手も、上半身こそ裸だったが、同じようなトランクスを着けていた。私達が柔気道の練習で着ている道着なんかと比較して、すごく動きやすそうである。
溝田紀子がリングに近づくにつれ、カメラに映る彼女の表情がアップになっていく。
(オリンピック銀メダリスト)のキャリアを紹介する男性アナウンサーの声量も、同時に大きくなって熱を帯びていく。
準備運動で汗をかいたからなのか、テカテカに顔が光っている。そして固く強張った表情。闘志満々って感じだ。全くの他人と言っていいこの溝田の緊張が、どういう訳か自分事のように、私も緊張し始めていた。なべ料理の発する熱量が部屋にこもったことあるだろうが、私の背中は、このとき少し汗ばんでいた。
決して柔道着の上からでは窺い知ることができないであろう引き締まった筋肉が露わになった溝田紀子が、遂にリングに上がった。溝田のコスチュームの色と、白いリングに広がった朱色の染みとが重なって、そのことが何かを暗示しているようで、とても怖かった。




