美波さん、テレビに出る(8)
作者の意図に反してマッサージ小説でなくなったので、新作を執筆中です。
その事件が起こったのは、溝田が2年に進級した初夏。夏の高校総体も間近に迫った頃のことである。
1年生の夏には、溝田は高校総体に出場しなかった。各校で出場選手の枠があり、これが高校最後の試合となる3年生に、出場枠を譲った格好となったのだ。
溝田が2年生に上がった頃には、溝田と柔道部を取り巻く環境が一変していた。
溝田と芝山美波が通っていた高校は、文武両道を校風に掲げている公立校であったが、県内では、むしろ進学校としての名の方が通っていた。その一方で、溝田の所属していた柔道部も含め、部活動の盛んな学校という印象は、まるで存在しなかった。
そんな折での溝田の入学は、校内で大きな話題となった。溝田入学の翌年には、全国区とは言えないが、県内では名を馳せた有望な柔道経験者も複数入学した。もちろん彼らの入学には、溝田の存在が大きく影響していたのだ。
そんな溝田を当校の広告塔としようと目論んだ学校側は、当時公立高校としては珍しいことであったが、顧問とは別に、柔道の特別コーチを雇った。
実業団で活躍した当時30代前半であった特別コーチは、現役を引退してから、まだ日も浅く、乱取りになると、溝田ですら、まるで相手にならなかった。
この特別コーチの掲げた目標が、この夏の高校総体で団体戦全国ベスト8入賞。
常識に照らすと、あまりに性急過ぎる高い目標であったが、これに異議を唱えるものは校内にはおらず、溝田自身も特に思う所はなかった。
この頃の溝田の目指すところは、個人としての日本一であり、団体戦の成績にはあまり頓着していなかった。有望な後輩の入学についても、頃のいい練習相手がやっと部内にもできたという程度の心境だった。
県予選に臨むレギュラーメンバーは、誰の眼にも明らかだった。
2年の溝田が絶対的エース。半年前までは中学生だった1年生3名が、実力的に溝田に続く。そして同部の主将である3年生の計5名。
全国ベスト8は現実的に高過ぎるハードルであったが、この5名が各々の実力を発揮できれば、県予選の突破は決して不可能ではない目標だと、溝田自身も考えていた。
溝田にとっても、思いもよらなかった事態が起きたのは、県予選を2週間後に控えた暑い放課後のことだった。レギュラーメンバーになるはずの1年生3人が、揃って退部を申し入れたのである。特別コーチのパワハラ紛いの指導が原因だった。
問題になった特別コーチの行為は、いずれも溝田が柔心会本部道場に出稽古に参加していた時であり、校内の注目を集めている溝田にだけは気を使っていた特別コーチのタガが、多少緩んだタイミングでの行為だったのだろう。
涙ながらに被害を訴える後輩3人が、揃って口にしたのが溝田への憧憬の思いだった。これには溝田自身も、深く自責の念に駆られたらしい。
溝田は迷った。引き留めるべきか、否か。
彼女たちが、自分を慕って本校の門をくぐったのは疑いない。彼女たちに柔道を捨てさせるべきではない。しかし・・・
掛けるべき言葉を探しているとき、またもや、その場に現れたのがあの芝山美波だった。
2年生に進級してから、クラスが分かれたこともあり、校内で見かけることも少なくなっていたし、結局、芝山美波が指導しているという柔心会少年部に顔を出すこともしていない。それでも、このタイミングで芝山美波が現れたことについて、(巡り合わせとはこんなもの)と溝田は表現した。
実に優しそうな眼で、彼女たちの言葉に耳を傾ける芝山美波の姿は、本当に美しく、年不相応の母性を感じさせるものだったと溝田は回想する。
(体験入部ってできるのかな?)
一通り、1年生部員の言葉を聴いた後の芝山美波のこのセリフの意味が、まるで溝田には理解できなかったらしい。
(誰か、白帯貸してくれない?)
おろおろと事の成り行きを見守っていた他の柔道部員を見渡し、溝田の答えも待たぬまま、芝山美波は言った。脇に抱えていた紺色のボストンバッグから引っ張り出された白い道着は、実に着古されたものだったそうだ。
(更衣室、勝手に使わせてもらうわよ)
一人の柔道部員から白帯を受け取り、更衣室に向かう芝山美波の背中が、やけに大きく見えたと、溝田は回想した。




