おやっさん(10)
キリがいいので投稿しちゃいます。
穏やかな寝息を男性が立て始めてからも、美波さんの施術は、その後30分以上続いた。
左手、肩、そして頭部。
その施術の間、男性の眼が開かれることは一度もなく、もちろんのこと会話もなかった。
手を止め、(ふぅ)と大きく漏れた美波さんの吐息によって、今日の施術が完了したことを私は理解した。
ふと見ると、美波さんの額にたっぷりと汗が浮いている。白い両肩ににじみ出た滴は、今にも細い腕を伝って流れ落ちそうだった。
ダウンジャケットのポケットからやや大きめのハンカチを取り出した美波さんが、額の汗を拭う。汗を拭いながら、美波さんが私に声掛けた。
「菊元さん、ありがとうございました。お陰様で、未熟な技ですが整体師として納得できる仕事ができました」
たったいま拭ったばかりだというのに、すぐに美波さんの額に新しい汗の玉が浮き上がってくる。
「私はこれで引き揚げます。今日も車で来ていますが、菊元さん、これからどうされますか?よければご自宅までお送りしますが」
あっ、まるで考えていなかった。これから私はどうすればいいのだろう。
正直に言うと、市バスの乗り方なんかもよく分らないし、美波さんが送ってくれると言うならお言葉に甘えたい感じだ。いや、それでも・・・
「私は、吉野さんが眼を覚ましたら、少し挨拶だけして帰ります。今日は本当に有難うございました。この度は無理を言いまして、申し訳ありませんでした」
私は深く深く、頭を下げた。下げた頭を上げて美波さんの顔を覗くと、額の汗の玉がさらに大きくなっていた。汗が眼に入ったのだろうか。美波さんの眼がたっぷりと湿っていた。
(ぐぃ)とハンカチで額と眼の辺りを拭った美波さんが、(では)と小さく口にしてダウンジャケットを手に取った。私に背を向け、数歩足を進めた美波さんが、ふいに立ち止まり、振り向かぬまま言った。
「吉野さんによろしくお伝え下さい。それから・・・」
ここで暫しの間が空いた。それから・・・何なのだろう。
「これからも、渉のやつを支えてやってください。よろしくお願いします」
そう付け加えた美波さんは、まるで躊躇なく扉を開け、そして病室を出て行った。
男性が目覚めたのは、美波さんが病室を出て行ってから、たっぷり2時間経過した頃だった。
4月上旬。
大きめの棺窓からは、男性の顔だけでなく、ワイチャツやネクタイ、そして渉さんが仕立てたはずの濃紺色のスーツまでが確認できた。
スーツの裏地にはソメイヨシノの刺繍が、大きく編み込まれているのだろう。
男性の顔色はよい。美波さんの施術を受けた直後の色とまるで同じ色と艶だ。
私の横で小さく肩を震わせていた渉さんが、大きく息を吐いた。
「カナさん、本当にありがとうね」
唐突な礼の言葉が意図するところが、私にはよく分らない。
涙に濡れている渉さんの顔を見ることのできない私は、視線を下げたまま黙り込む。
「師範のマッサージ、すごく喜んでた。つい3日前の電話だよ。よくよくお礼を言っといてくれってさ。カナさんと師範に」
じわりと瞼が熱くなった。視線を落としたままでは雫が落ちそうだったので、少しだけ私は視線を上げた。
白いカーネーションを基調にした大きな供花が見えた。
(柔心会主席師範 芝山美波)
白い板に書かれていたその文字は、大きな供花とは対照的に、慎ましい程に小さかった。
例年より寒いと言われた今年の春も、すっかり温かくなったと感じられる晴天の午後だった。




